日経おとなのOFF
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守 衛亡き後、中村屋サロンの中心人物は柳敬助、中村彝と受け継がれていく。大正3年、光太郎は処女詩集『道程』を発刊し、その2ヶ月後には晴れて智恵子と結婚を果たす。

光太郎の詩には“冬”をうたったものが数多くある。『冬が来る』『冬が来た』『冬の朝の
めざめ』『冬の詩』の冬四編は、すでに陽の目を浴びており、当時の光太郎の社会に対する態度が見て取れる。智恵子という魂の拠りどころを得て、彼の人生のなかでも最も清冽かつきらびやかな時期。しかし、大正4年、当時の中村屋サロンの中心人物だった中村彝が去ると、自身も中村屋とは距離を置くようになってしまう。
智恵子との結婚により生活費を稼ぐために、しばし芸術活動と距離を置かざるを得なかったのも要因の一つとされる。大正4年から13年までの10年間で一編も詩を書かなかった年が3回。最も多く書いた年でさえ10編である。確実な収入として、彼はこの時期、翻訳の仕事を数多くこなすようになっていた。
一方、中村屋はこの間、インド独立運動の志士ラス・ビハリ・ボースを匿ったり、ロシアの盲目の詩人・エロシェンコをアトリエに住まわせ援助するなど多様な展開を見せていた。昭和2年に、現在の原型となる喫茶部(レストラン)を開設するのだが、メインメニューとして、『純印度式カリー』と『ボルシチ』が名を連ねているのは、まさに上記歴史の副産物ゆえである。




