日経ビジネスの編集長をしていた時代に、安倍晋三首相をインタビューしたことが
あります。その際、印象に残ったことの1つに、こんなやり取りがありました。「日
本は失敗した人に冷たい社会だと言われます。安倍さんは一度目の首相時代の苦い経
験を、今回は十分に生かしているように見えます」
「そう。米国の場合は1回失敗した人の方がむしろ投資家からお金がつきやすいと言
われます。その意味では、日本は大切な資源をムダにしているのではないでしょう
か。ウォルト・ディズニーは挑戦と失敗を繰り返しました。日本人だったら、ミッ
キーマウスは誕生していなかったでしょう」
5月18日月曜日のゲストはブラザー工業の小池利和(こいけ・としかず)社長。小池
さんの話を聞きながら、安倍首相のインタビューの時のことを思い出しました。「失
敗した人をプッシュしていく。挫折を繰り返しながら、成功に導いていく。ブラザー
という会社はそんな失敗に寛容な会社です。現に私が社長をやっているくらいですか
ら」。小池さんは入社2年目から23年間米国にいて、商品企画にたずさわりました。
当時は「これをやったら絶対に売れる」と言って投入した商品のうち、3つに2つは失
敗したそうです。
そんなブラザーの「あきらめない経営」の象徴が、カラオケ事業です。子会社のエ
クシングが手がける通信カラオケの「ジョイサウンド」は、第一興商と並んで業界
トップシェア。そもそもブラザーは、世界で初めて現在の通信カラオケシステムを開
発した会社です。実はこの通信カラオケの誕生には、ある商品の撤退が関わっていま
した。パソコン用のゲームソフト自動販売機「TAKERU」。顧客が好きなソフトを選
び、フロッピーにダウンロードできるという当時としては画期的なものでしたが、ア
イデアが奇抜すぎて、大赤字を出してしまったのです。
ただ、当時の担当者たちが、「今度はカラオケで楽曲の配信をやりたい」と言いだ
して"敗者復活戦"が始まります。当時のカラオケはレーザーディスクで、納品され
るまでに時間がかかり、新曲がリリースされても2週間から1カ月たたないと歌えませ
んでした。しかし、通信カラオケであれば、新曲が出て2日~3日後には歌えます。こ
れが爆発的にヒットしたのです。
あきらめない経営の事例はこれだけではありません。たとえば、ファクス市場には
最後発のメーカーとして参入しました。この時、社内の否定的な意見を振り払って推
進したのは、かつて撤退を余儀なくされたカラーコピー機の開発のリーダーだったそ
うです。当時のトップが「これで失敗したら、もう止めよう」と宣言したうえで、最
後に投入した新商品が米国市場で大ヒット。「火事場の馬鹿力ですよ」と小池さんは
笑います。
それにしても、プリンター、複合機、ミシン、カラオケ、オルゴール、スマート
フォン関連の生産機械など、一見、つながりの薄そうな多様な事業を展開するブラ
ザー。なぜここまで事業の多様性にこだわるのか。小池さんの回答はこうでした。
「確かに、収益性の高い事業に絞り込めば、もっと大きく伸びるのかもしれません。
その代わり、当社はこれまで調子の良い時も悪い時も、お互いの事業が助け合ってき
ました。その方が事業基盤は安定すると思うのです」。
事業の選択と集中、ROE(自己資本利益率)経営、内部留保の取り崩し、株主還
元。最近、新聞を読むと、こうした言葉を目にしない日はありません。もちろん、収
益性や資本効率の向上は重要です。上場企業がそのことを軽視するわけにはいきませ
ん。ただ、あまりにも企業から「遊び」や「余裕」が削がれ、失敗に対する「寛容
さ」が無くなってしまったら、独創的な商品は出てくるのだろうか。小池さんの話を
聞きながら、そんなことを考えました。
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