森泰吉郎(森ビル・森トラスト創業者)

森泰吉郎(森ビル・森トラスト創業者)
六本木ヒルズ、ラフォーレ原宿、ギンザシックス…数々の東京の人気スポットを手掛けてきた日本屈指の不動産デベロッパー「森ビル」。
森ビル・森トラスト創業者の森泰吉郎は、55歳まで経営学の大学教授だった。学者ならではの知識と先見性を生かし、父から受け継いだ小さな貸しビル事業を次々に拡大。学者から“不動産王”へと転身した。森の原体験となったのが、大学時代に被災した関東大震災だった。
関東大震災で実家と家業の貸家がすべて焼けたが、住民との信頼関係のお陰で一家は貸家業を再開できた。この経験から、森は人との「信頼関係」と「土地」の重要性を知る。そして経営者になっても、人と心を通わせ、相手の利益を真っ先に考えるという信念を貫いた。人生をかけた巨大プロジェクトで激しい反対運動に対し、森が取った対応とは?森が目指した新しい“街づくり”とは?森の生涯を関係者や家族の証言を元に追う。
  • 2018年3月10日(土)
    「学者から不動産王へ!東京を造り変えた男」

    森泰吉郎は1904年に西新橋に生まれた。両親は米屋を営む傍ら、30軒ほどの貸家の管理業をしていた。だが、森が一橋大学2年の時、関東大震災に遭い、自宅の米屋も貸家も全て焼けてしまった。一家は米屋を廃業し、貸家業に専念することを決めた。しかし、国の特例で、借家を失った人はその土地に勝手に家を建てて住んでよいという救済策が始まる。
    一家は地主や家を貸していた人を訪ね、また家を建てさせてほしいと頭を下げて回った。すると、「お世話になったので、家を建ててまた貸してほしい」と了承された。この経験から、森は開発業者にとって最も大事なのは「信頼関係」であり、災害に遭っても「土地を持っていれば強い」ということを学んだ。一家は家賃収入で、土地を次々と買い、貸家を増やしていった。
    一方、森は大学のゼミで経営学者・上田貞次郎と出会い、「企業経営で大事なのは社会に役立つことで、貢献度に応じて利潤を得られる」と教えられた。この考えは後に森の経営哲学となった。森は大学で学ぶうちに経営学の虜となり、京都で学者の道に進んだ。
    戦時中、父が所有する不動産の多くが壊滅した。戦後、森は京都から横浜に戻って家業を手伝い始めた。森は学者らしく、ハイパーインフレや東京への一極集中を予測し、負債を恐れず、多くの土地を買った。予測は見事に当たり事業はさらに拡大。1959年、55歳の森は教師生活に別れを告げ、父の跡を継いで「森ビル」社長に就任した。
    しかし、ビルの高さ制限が緩和され、これまで森ビルが進めてきた中小規模のビル開発よりも大規模ビル開発が有利となった。そこで、森は日本初の高層ビル「霞が関ビルディング」に負けないものを作ろうと決意。勾配がきつく「陸の孤島」と言われた赤坂・六本木地区で、それまでの日本にはない、職場と住宅が一体化した街づくりに挑んだ。しかし、周囲からは無謀だと言われ、住民からは「インベーダー森ビル」とやゆされて激しい反対運動に合った。それでも、手作りのコミュニティー紙を発行し、社員を移住させるなどして、住民との交流に力を入れた。最終的に社長の森自ら反対派のリーダーを説得し、計画から18年たった1986年、複合施設「アークヒルズ」が完成。森はオフィス、住居、文化施設などが一体化した、新しい“街づくり”を完遂させたのだった。森は1993年に89歳で亡くなったが、その街づくりの精神は「森ビル」を継いだ次男・森稔と、三男・森章が会長を務めるデベロッパー「森トラスト」に受け継がれたのだった。