大倉喜七郎(ホテルオークラ創業者)と
野田岩次郎(開業当時社長)

大倉喜七郎(ホテルオークラ創業者)と野田岩次郎(開業当時社長)
アメリカの歴代大統領やイギリスのダイアナ妃など、世界の著名人が宿泊してきた「ホテルオークラ」。1964年の東京オリンピック開催の2年前に開業した。海外の賓客をもてなす一流ホテルがほとんどない時代、創業者の大倉喜七郎と開業当時社長の野田岩次郎は、開業まで苦難の連続を味わった。2人は戦後、“解体される財閥”と“財閥を解体する側”という正反対の立場で出会った。
大倉喜七郎は財閥の2代目総帥だったが、財閥解体で職を解かれ、かつて経営していたホテルからも復帰を拒まれた。そんな大倉がホテルの新社長として白羽の矢を立てたのが、野田岩次郎だった。野田はアメリカ中を渡り歩いた元商社マン。GHQの下で財閥解体を行い、大倉にとっては“敵”とも言える存在。そんな2人はなぜ、海外に通用するホテルを作ろうと、志を共にしたのか?2人の生涯を当時の関係者らの証言を元に追う。
  • 2017年12月16日(土)
    「ニッポンのおもてなしを世界に知らしめた男たち」

    1897年、野田岩次郎は長崎市の洋品店に生まれた。三井物産に入社し、アメリカで商社マン生活を始めた。タイピストの白人女性と結婚したが、社内から猛反対を受けたため、生糸の輸出会社に転職した。アメリカ中を営業に回ったが、日本人営業マンに会ってくれる会社はない。そこで、土地ごとの最高ホテルのロビーに客を招いて、商談を行った。この経験から野田は一流ホテルの接客や利用する紳士の振る舞いを自然と学んだ。やがて太平洋戦争が始まり、日本人である野田は強制収容所に送られた。終戦後、野田は抜群の英語力と交渉力で、日本の財閥解体の実行機関「持ち株会社整理委員会」のメンバーに選ばれた。野田はそこで大倉財閥の総帥、大倉喜七郎に出会った。
    大倉財閥は帝国ホテル、帝国劇場、大成建設やサッポロビールなどの創設に関わった大財閥だった。大倉喜七郎は1882年、後継ぎとして生まれ、イギリスのケンブリッジ大学に留学。華麗な私生活を送っていたことから、「バロン・オークラ」と呼ばれた。数多くの事業がある中、大倉が熱心に打ち込んだのは、ホテル事業だった。しかし、財閥解体で大倉はすべての職を解かれ、経営していた帝国ホテルからも追放されてしまう。大倉は、失意のどん底から「世界に負けない一流ホテルを作ろう」と野望を抱いた。
    そこで、財閥解体にあたった野田岩次郎に、自ら構想するホテルの新社長を依頼した。野田はホテル経営については素人だったが、アメリカ生活が長く知識も豊富。野田は大倉の情熱に心を動かされた。2人は西洋の物まねではなく、「日本ならではのおもてなしや美しさを湛えたホテル」を作ろうと志を共にした。
    1962年、地上6階、地下4階の巨大ホテル(旧本館)が完成した。日本を代表する建築家やデザイナー、芸術家を集め、建築、内装、庭園に日本の伝統美を取り入れた。さらに、料理やサービスにも細心の心配りをした。その完成を見届けるように、大倉は1963年に亡くなった。1964年の国際通貨基金の総会でホテルオークラは世界にその名を知られるようになり、著名人が次々と滞在した。1985年には世界ホテルランキングで1位を獲得し、名実ともに世界一のホテルとなった。1988年、野田岩次郎は91歳で亡くなった。大倉と野田が渾身の思いを注いだ旧本館は、2015年に建て替えのために閉鎖された。閉鎖の際には、国内外から建て替えを惜しむ声が寄せられた。2人が追求した「ニッポンのおもてなし」の心は、今も多くの人の心に刻まれている。