小原豊雲(いけばな小原流三世家元)

小原豊雲(いけばな小原流三世家元)
小原流は19世紀末、小原雲心によって「盛花(もりばな)」という口の広い器に花を盛るようにいける新形式の「いけばな」を創始したことで始まった。現在、小原流は全国148支部、海外に56支部を誇り、小原豊雲はその中興の祖として、異質な素材を用いて「いけばな」の芸術性を追究するなど、確固たる基盤を作り上げた。
豊雲の知られざる幼少時代から父・光雲の存在、そして30歳での家元襲名、常識を打ち破る野心的作品の発表、「いけばな」の新たな表現と華道界の統一までを、長女・稚子さんや孫である五世家元・小原宏貴さんのインタビューと共に追う。豊雲が日本の伝統文化「いけばな」の世界に遺したものとは?
  • 前編(1月15日放送)
    「いけばなの限界を解き放った男」

    室町時代に始まったとされる「いけばな」の中で、小原流は洋花にも合うように「盛花」いう新形式を創始した小原雲心によって明治の中頃から始まった。1908年、雲心の孫として誕生した豊雲は、花よりも昆虫に夢中な少年時代を過ごす。だが、祖父の雲心が56歳で他界。商人を志していた父・光雲が二世家元となり小原流は組織化され全国規模となる。一方、豊雲は商業学校へ進学するが落ちこぼれてしまい園芸学校に再入学。そこで、海外の熱帯植物に興味を持つようになる。卒業後、家業を継ぐ決心がつかないまま若手幹部といけばなの研究会を開始。その後、斬新な作品を見せようと意気揚々と作品を発表するが、父に一刀両断されたうえ作品を手直しされ、父の偉大さを実感する。ところが、突然父が病で倒れ、この世を去る。30歳で家元を継ぐ決意をした豊雲は、流派の求心力、そして今後の方向性を示すために展覧会を開催。そこで、古参の幹部が反対する中、ポリネシアやミクロネシアの土俗品を使った野心的ないけばな「南洋情趣挿花展」を発表する。これが大反響となり、流内の支持を得た豊雲の名声は一気に高まる。

    ☆私の逸品…「豊雲愛用の筆」。画を描くことが好きで花をいけては画を描いて、人々にプレゼントしていたという。

  • 後編(1月22日放送)
    「いけばなの限界を解き放った男」

    38歳で終戦を迎えた豊雲は、心に安らぎを与えたいといち早く「いけばな展」を開催する。さらに、草月流の勅使河原蒼風と「二人展」を開催するなど戦後の華道界をけん引。いけばなの新たな可能性を追究し始めた豊雲は、異質な素材をあえて使い大がかりで大胆な作品を作り上げ、これらは「前衛いけばな」と呼ばれるように。これまでの概念を打ち破り、より芸術性を追究していった豊雲は、海外にも積極的に出向き、その国の素材を活かしたいけばなで個展も開催。そんな中、戦後以降バラバラになっていた池坊・草月流・小原流の三大流派をはじめ、全国にある様々な流派をまとめる組織作りの立ち上げを依頼される。華道界の未来のため、それぞれの流派の間に入り話をまとめ、1966年に「財団法人いけばな芸術協会」が誕生。その後、長男・夏樹を次期家元として副家元に据え、己の集大成の作品作りに取り組むため海外を巡る。だが、そんな晩年に夏樹が43歳の若さで帰らぬ人に。その後、1995年、当時6歳だった孫の宏貴に小原流の未来を託すかのように、小原流いけばなの普及に努めた豊雲は86年の生涯を閉じる。

    ☆私の逸品…豊雲愛用の古代アンデスの土器「人面の壷」。土俗的なものに憧れ、様々なものをコレクションしていた豊雲。なかでも「おばさん」のニックネームで愛用した「人面の壷」を紹介。