有馬稲子(女優)

有馬稲子(女優)
女優として67年のキャリアを誇り、舞台「はなれ瞽女おりん」で実に24年にわたり通算684公演を達成した有馬。宝塚音楽学校に入学後、17歳で初舞台を踏み、退団後は21歳で映画の世界へ。小津安二郎をはじめ巨匠監督に認められ日本映画黄金期を支えると共に「五社協定」に反発し、女優仲間と「にんじんくらぶ」を設立し、映画界の活性化にも尽力。その後、舞台へと活躍の場を移し、世界で初めて舞台化した「風と共に去りぬ」で主役を務めるなど舞台女優としての才能も開花させる。だが、女優として華々しい活躍の裏では実生活で2度の離婚を経験。本人のインタビューを基に女優・有馬稲子の生き方に迫る。
  • 前編(11月13日放送)
    「真っ直ぐに生きる反骨の女優」

    1932年、大阪府で誕生した有馬は、4歳の時に組合活動に熱心な父によって転々とする暮らしを心配した父の姉・叔母夫婦の養女となる。韓国・釜山で商売をしていた叔母夫婦のもとで何不自由のない生活を送るが、養父が病死し一気に家計が傾く。1945年、終戦後は命からがら漁船で軍の監視をかいくぐり日本へ帰国。10年ぶりに実の家族との生活が始まるが、父の暴力に耐える日々が始まる。1948年、級友に誘われて宝塚音楽学校を受験し、見事合格。翌年に初舞台を踏み、実力を重ねていった有馬は宝塚音楽歌劇団に借金をして養母と暮らす一軒家を購入、ようやく日本で心休まる地を手に入れる。その後、1953年に東宝と専属契約を結び「ひまわりの娘」に出演。着実に映画スターの階段を駆け上がっていくが、大手映画会社五社による専属の俳優や監督を他社の作品には出さないという通称「五社協定」に反発し、22歳で女優の岸惠子、久我美子と「文芸プロダクション にんじんくらぶ」を設立する。1960年、「人間の條件」でヴェネツィア国際映画祭の銀賞を獲得。一方、女優としても1957年に「東京暮色」に出演し、日本を代表する女優へと成長していく。

    ☆私の逸品…文豪・川端康成氏から譲り受けた「嵐」の書。「にんじんくらぶ」の顧問としてもサポートし応援してくれていたという川端は、有馬にとって父親代わりの存在だったそう。

  • 後編(11月20日放送)
    「真っ直ぐに生きる反骨の女優」

    日本を代表する女優へと成長していた有馬は、1959年に「浪速の恋の物語」で共演した萬屋錦之介と出会い、1961年に結婚。ところが、舞台でもその才能が開花し、忙しい日々を送るようになり、1965年にすれ違いの末に離婚。1966年、世界で初めての舞台化「風と共に去りぬ」で主役、スカーレット・オハラ役に選ばれる。舞台女優としての地位を不動のものにするが、有馬の中で女優としての基礎を知らないことへの引け目が表面化。そこで、演劇界をリードする名優・宇野重吉に相談し、宇野が設立した劇団「民藝」に入団する。俳優の卵たちと共に演劇の基礎を学び、チケットを自ら売り歩くように。1969年、実業家の男性と再婚。「民藝」を退団し夫を陰で支えるものの夫の会社の経営が悪化し倒産してしまう。そんな中、全国を回る舞台「はなれ瞽女おりん」の出演が決定。酒に溺れる夫が家で暴れる中、死にもの狂いで稽古に励み、1980年に公演がスタート。1983年には二度目の離婚を経験。だが、舞台「はなれ瞽女おりん」は、空前のロングランとなり2004年まで足かけ24年で684回の公演回数を達成し、女優としての金字塔を打ち立てる。

    ☆私の逸品…京都・祇園にあるステーキ店「ぽうる」。錦之介さんとよく訪れていたという思い出のお店。京都を訪れるたびに足を運ぶ理由とは?