釜本邦茂(日本サッカー協会顧問)

釜本邦茂(日本サッカー協会顧問)
日本サッカー界において代表75ゴール、日本リーグ通算202得点、7度の得点王という輝かしい成績を収めた釜本は、フォワードとしてその才能を開花させるがドイツ人サッカー指導者のデットマール・クラマーからの言葉で、自身と世界の差を痛感。以降、常に世界基準を見据え、ヤンマーディーゼルに入社後はシーズンオフにドイツにサッカー留学するなど練習に明け暮れる。メキシコオリンピックでの銅メダル獲得、絶頂期での病、日本サッカーの長きに渡る低迷期を経験した釜本のサッカーへの情熱とその功績を、中村俊輔をはじめサッカー選手のインタビューと共に綴る。
  • 前編(9月25日放送)
    「サッカー“冬の時代”を乗り越えて」

    1944年、京都市で誕生した釜本は小学校の先生の助言でサッカーを始める。すると、恵まれた体格と持ち前の身体能力が相まってフォワードとしての才能が開花。高校2年でユース日本代表に選出されるが、のちに“日本サッカーの父”と呼ばれるドイツ人サッカー指導者のデットマール・クラマーからスピード不足を指摘され、世界との差を痛感する。正確かつプレースピードを上げる特訓に励み、早稲田大学に進学した釜本は、1年生ながら大学リーグの得点王となり日本代表に初選出。ところが、オリンピック前の遠征で単独チームに勝つことも出来ず、東京オリンピックでもベスト8となるものの釜本は無得点に終わる。この悔しさをバネに日本サッカーリーグのヤンマーディーゼルに入社。さらに、オフにドイツにサッカー留学するなど、レベル向上のために練習に明け暮れる日々を送る。そして1968年、メキシコオリンピックが開幕。釜本の活躍で予選を無敗で進んだ日本は、準決勝で敗れ3位決定戦へ。地元メキシコとのメダルを懸けた戦いで釜本は2ゴールを奪い、日本は銅メダルを獲得。得点王に輝いた釜本の名は世界へ轟くが…。

    ☆私の逸品…お気に入りの備前焼作家・見附文雄さんの「壺」。自ら刻んだ“夢”の文字に込められた思いとは?

  • 後編(10月2日放送)
    「サッカー“冬の時代”を乗り越えて」

    1968年、メキシコオリンピックで銅メダルを獲得したことでサッカー人気は過熱。ところが選手として絶頂期の中、釜本は突如ウイルス性肝炎を患ってしまい、ワールドカップ予選の出場も叶わない状況に。代表に復帰後も、ワールドカップ、オリンピック共に予選敗退…日本サッカーは冬の時代を迎える。だが、観客数が激減する中でも釜本は毎年のように得点王を獲得。数多の海外移籍の誘いを断り続け、国内で孤軍奮闘の活躍を見せるが、1982年38歳のときに右アキレス腱を断裂してしまう。1984年、40歳で現役を引退。日本代表として歴代1位となる75ゴールをあげ、日本リーグでは通算202得点、7度の得点王に輝く。国立競技場で行われた引退試合には6万人ものファンが集結、世界的スターのペレやオベラートも駆け付け、その功績を称えた。そして1993年、ガンバ大阪の監督としてJリーグ開幕を迎える。それから20年、現在も日本サッカーのレベルを上げるべく各地で子供たちのためにサッカー教室を開催するなど、サッカーに心血を注ぐ日々を送る。

    ☆私の逸品…孫からプレゼントされた「バカラのグラス」。さすがの釜本も、これを手にすると、おじいちゃんの顔に!?