吉田義男(元阪神タイガース監督)

吉田義男(元阪神タイガース監督)
球界の“牛若丸”こと吉田義男は、1952年暮れに阪神タイガースに入団。人一倍の努力によって華麗かつ堅実な守備で観客を魅了する遊撃手となる。引退後は、阪神タイガースの監督を3度務める。1985年の2度目の就任時には、球史に残る名シーンと言われる「甲子園バックスクリーン3連発」を見せつけ、阪神タイガースを21年ぶりのリーグ優勝と球団初の日本一に導く。その後、フランスのクラブチームとナショナルチームの監督に就任し、フランス野球の発展に尽力。吉田の一番の理解者である篤子夫人をはじめ、愛弟子である掛布雅之、岡田彰布のインタビューと共に、吉田の激動の野球人生に迫る。
  • 前編(6月19日放送)
    「球界の牛若丸!栄光と屈辱の名将」

    1933年、京都に生まれた吉田は、幼い頃から足が速く中学で野球部に入部する。すぐに野球に夢中になるが、高校1年の時に両親が他界。兄の援助で野球を続け、甲子園出場を果たし、1952年暮れに阪神タイガースに入団。先輩選手のケガにより、ショートのレギュラーに抜擢される。しかし試合ではエラーを頻発。それでも「人は失敗して覚える」という野球哲学を持つ松木謙治郎監督は辛抱強く吉田を起用し続ける。監督の期待に応えるため、常にボールとグラブを持ち歩き練習に明け暮れる。その結果、鉄壁かつ華麗な守りを身につけ、“牛若丸”と称され阪神に欠かせない選手へと成長する。1957年、24歳で結婚。1962年、阪神の初優勝に貢献するが日本一には届かず、64年も同様の結果に終わる。1969年に36歳で現役を引退。1975年、42歳で阪神の監督に就任し、若手の掛布雅之をレギュラーに抜擢するなどチーム改革を進めるが結果が伴わず3年で辞任となる。1985年、再び阪神の監督に就任。ランディ・バース、掛布雅之、岡田彰布を揃えたクリーンナップが冴え渡り、巨人戦でこの3人による「バックスクリーン3連発」が実現。21年ぶりの阪神優勝が近づく。

    ☆私の逸品…兵庫県宝塚市にある中華料理店「青椒」。吉田が昔から通っているお店で、大好物だという“天使のヨーグルトとホタテのふわふわ炒め”にはある思い出があるという。その思い出とは?

  • 後編(6月26日放送)
    「球界の牛若丸!栄光と屈辱の名将」

    2度目の監督として迎えた1985年、バース、掛布、岡田の強力打線や投手起用がハマり、21年振りにセ・リーグ優勝を果たす。勢いに乗った阪神は西武との日本一をかけた試合も制し、球団史上初となる日本一へ輝く。ところが翌年以降順位は低迷し、激しいバッシングを受けた吉田は監督を解任される。野球への情熱を失うが、知人から頼まれフランスのクラブチームで野球を教えることに。ほぼボランティアで技術的に草野球レベルの選手たちに連携プレーやバントの意味をイチから教える日々を送る。そんな吉田の姿に選手たちも尊敬の念を抱くようになりチームは優勝、その手腕を買われフランス代表監督も兼任。オリンピック出場は叶わなかったが、吉田は野球への情熱を取り戻す。7年にわたりフランス野球に尽力した後、1997年に3度目の阪神監督に就任。結果は振るわなかったものの選手の育成に力を入れ、5年後の2003年の優勝の礎を築く。そして82歳となった吉田は現在、野球の国際化に心血を注いでいる。

    ☆私の逸品…甲子園歴史館に展示されている1955年に行われた日米野球の「記念カップ」。
    日本チームは来日したヤンキースに15敗1分と大敗するが、当時22歳だった吉田はヤンキースの選手投票による「日本の傑出した選手」に選出。「記念カップ」は野球選手としての自信を与えてくれたかけがえのない宝物となった。