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前編(6月5日放送)
「現代美術の巨匠 79歳の挑戦」1936年、兵庫県で誕生。両親に溺愛され育った横尾は、絵を描くことが好きな少年へと成長。高校時代には絵画コンクールで入選するようになり、美大に進学し油絵画家になる夢を抱くように。ところがある日、自分が父親の弟の子で養子であることを知る。進学を諦め地元で就職した横尾は、友人の紹介で「神戸新聞社」に入り、神戸宣伝美術協会の新人賞を受賞。そして一つ年上の泰江と出会い21歳で結婚。1960年、上京した横尾は「日本デザインセンター」に入社し、その後、仲間と共に事務所を構える。同じ頃、父が亡くなり上京した母も末期の膵臓がんであることが判明。少しでも一緒にいたいと、病室のベッドの隣に机を持ち込み、寝泊まりしながら仕事のアングラ舞踊のポスターを作ることに。すると、命を失おうとする母の横で横尾の代表作となるポスターが完成。新たな作風を手にした横尾のもとに次々と仕事の依頼が舞い込むように。1968年にはニューヨーク近代美術館で状況劇場ポスター「腰巻お仙」が60年代を代表する最優秀作品に選出。世界的デザイナーとなった横尾は、海外や日本で個展を開催し世界的な賞も数々受賞。ところが、45歳の時にNYでピカソの絵を見ている最中に強い衝動にかられ、画家になることを宣言して…。
☆私の逸品…神戸・西脇にある「実家跡に残るヒノキ」。この松の木は自分の両親そのものだと語る横尾。横尾自ら故郷を訪ね、その深い想いとともに紹介する。
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後編(6月12日放送)
「現代美術の巨匠 79歳の挑戦」世界的グラフィックデザイナーとして活躍していた横尾は、45歳の時にピカソの絵を見て、画家になることを決意。しかし、個展を開いたものの評価は散々なものだった。だが画家になって4年、パリでの国際展に招待される。そこで日本の神話を題材にした「天の岩戸」を描き上げるが、日本美術界の反応は冷たいものだった。世間に認められたいと思う一方、何を描けばいいのか迷い苦悩する横尾は、世間の反応ではなく自分の直感に任せ、内から湧き出るものを描けばいいと気づく。そこで、思いのままに筆を進めるとカンバスに浮かび上がったのは“死への恐怖”。1990年代に「赤の魔宮」をはじめ、連続して描いた“真っ赤な作品シリーズ”やより死の色合いを濃くした「彼岸」を発表。そして、2000年には代表作「Y字路」が完成する。西洋美術の後追いではなく、「日本の文化」「死生観」を独特な世界観で描いた横尾作品は世界的な評価を受ける。2001年に紫綬褒章を受章し、2015年には日本美術協会が世界的に優れた功績をあげた画家に贈られる高松宮殿下記念世界文化賞を受賞。横尾の創作意欲は衰えることなく、今もデザインと絵画の融合に挑戦している。
☆私の逸品…「西脇小学校」。映画の撮影にも使われた風情ある木造校舎。保存には横尾が尽力した。後世に残したいという願いを込めて、横尾自らが紹介する。
横尾忠則(美術家)
- 紫綬褒章や高松宮殿下記念世界文化賞をはじめ、多くの賞を受賞し世界的に活躍する横尾は、1960年代から70年代にかけて独特なレイアウトに鮮やかな色彩のポスターを生み出し、世界的グラフィックデザイナーの地位を確立する。しかし、45歳の時にピカソの作品を見たことがきっかけで画家に転身。苦悩する日々を過ごしながらも、内なる衝動をカンバスにぶつけ「Y字路」など、独特な作品を生み出し続ける。横尾が描く「日本文化」「死生観」の原点を紹介すると共に、友人の瀬戸内寂聴や山田洋次らがその魅力を語る。さらに今回、個展の為に3年ぶりの大作に挑む横尾の制作過程を追う為、アトリエにカメラが潜入。老いと闘いながら新たなことに挑戦する横尾の原動力に迫る。