三代目 桂米朝(落語家)

三代目 桂米朝
1996年に人間国宝に認定され、落語界初の文化勲章を受章した桂米朝は、漫才ブームの煽りで衰退の一途を辿っていた上方落語を復活させ、気品のある芸風と端正な語り口で人気となる。1947年に桂米団治に弟子入りし、苦しい修行時代を送った米朝は、落語を世間に広めるためにと様々なジャンルに挑戦しファンの裾野を広げる。さらに、これまで埋もれていた古典作品を現代に甦らせ、小さな寄席が定番だった落語に、“ホール落語”の道筋を切り開くなど、落語界の常識をも塗り替える。60年の間で5300回高座に上がり、演じた演目は180以上。常に己の落語を追い求めた米朝の笑いと落語に捧げた生涯とは…。弟子の桂ざこば、息子の桂米團治への取材を通して描き出す。
  • 前編(3月6日放送)
    「上方落語“復活”にかけた人生」

    1925年、中川清こと桂米朝は中国・大連で誕生。5歳の時に帰国し、姫路で暮らし始めた米朝は父の影響で落語にのめり込み、東京の大学へ進学しても落語通いを続ける。そんなある日、ひょんなことから寄席研究家・正岡容の家を見つけ、正岡の下で伝統芸能や演芸の研究に勤しむように。ところが、戦争により大学を中退することになり姫路へ帰郷。戦争の傷跡が残る中、姫路での落語会開催のため、上方落語家・笑福亭松鶴のもとへ。松鶴は米朝の願いを快く了承し、手作り落語会は大成功を収める。その様子を見た米朝は自分も高座に上がりたいと、1947年、22歳で桂米団治に弟子入り。大阪の米団治の家に住み込み落語修行を始めるが、漫才ブームの煽りを受け落語人気は低迷。米朝は貧しい生活の中、落語修行に没頭し、ついに初舞台に上がる。しかし結果は散々。それでも更なる成長のために落語を学ぶが、1951年に高座を終えた米団治が脳溢血で倒れ息を引き取る。さらに上方落語を支えてきた松鶴や桂春団治が次々とこの世を去り、落語界の未来に暗雲が立ち込める。

  • 後編(3月13日放送)
    「上方落語“復活”にかけた人生」

    上方落語の重鎮・笑福亭松鶴、桂米団治、桂春団治がこの世を去り、落語界は危機を迎える。そんな中、米朝は町の集会所やファンの自宅など、どんな場所へも赴き、落語を披露し続け、その傍らでベテラン落語家に稽古をつけてもらう日々を送る。そんな地道な努力が実を結び、NHKラジオの歌番組の司会を担当することに。米朝の喋りは徐々に世間に知られるようになり、テレビ局の開局で仕事も少しずつ増えて生活も安定。1957年には18人の落語家たちと「上方落語協会」を結成し、副会長に就任する。さらに同じ年、仕事で知り合った女性と結婚、長男を授かる。米朝の顔が世間に知られるようになると弟子入り志願の若者が急増。息を吹き返し始めた上方落語の更なる発展のため、米朝は大会場での独演会に挑戦する。1966年、京都にある1100人収容の大ホールでの独演会は満員となり、翌年の東京の独演会では、これまで埋もれていた古典を披露し大成功を収める。その後、テレビ番組の司会を15年間務めるなど、上方落語復興を行うと共に、若手噺家の指導にも尽力し続ける。