藤山一郎(歌手)

藤山一郎(歌手)
日本経済新聞の名物コラム「私の履歴書」を映像化した本番組。 今回のスペシャルでは、男性歌手としてただひとり、国民栄誉賞を受賞し、歌の持つ力を信じ続けた歌手・藤山一郎にスポットを当て、深く掘り下げて紹介します。 晩年の姿を知る長女・市川たい子さんのインタビューや音楽関係者の証言を基に、生涯を歌に捧げた藤山一郎の知られざる思いを紐解きます。
  • 私の履歴書 拡大版(12月27日放送)
    「昭和とともに生きた国民的歌手」

    1911年、東京・日本橋呉服店の末っ子として生まれた増永丈夫こと藤山一郎は、裕福な家庭で育ち幼い頃から音楽に慣れ親しむ。10歳の時に学校推薦で童謡歌手に抜擢されるなど順風満帆な生活を送るが、金融恐慌により呉服店は莫大な借金を背負い倒産寸前に。当時、東京音楽学校の声楽家に通っていた藤山は家計を助ける為に覆面歌手のアルバイトを始める。しかし、学外で歌う事を禁止されていたことから本名を出せず、藤山一郎の芸名を使用。そして新進作曲家の古賀政男の「キャンプ小唄」でデビューを果たし、1作目から40万枚のヒットを飛ばす。そして、2作目「酒は涙か溜息か」は100万枚の大ヒット。日本語を明瞭に正しい発音で歌うことにこだわる藤山の歌は“楷書の歌”と評され、次々とヒット曲を飛ばす。1940年に結婚し、翌年には長女が誕生。1941年、太平洋戦争が勃発し軍の要請で慰問団を結成した藤山は、戦地を巡り兵士たちを歌で励まし続ける。終戦後、捕虜として捕らわれ収容所へ。1946年、3年振りに日本に帰国した藤山は、敗戦で打ちひしがれた国民を元気づける為に第一線で活躍し始める。そんな折、1949年に原爆体験の手記を基に作られた「長崎の鐘」をリリース。「長崎の鐘」は大ヒットを記録すると共に藤山自身にとっても特別な一曲となる。その後は“世の中の役に立ちたい”と、社歌や校歌などの作曲に力を入れる。そして、これまでの功績が認められ1992年、国民栄誉賞を受賞。