小松左京(SF小説家)

小松左京(SF小説家)
31歳でSF作家デビューした小松は、子供の頃の戦争体験が原点となり、「復活の日」や「首都消失」など、近未来を予見する小説を次々発表。さらに地震学者に多大なる影響を与えた「日本沈没」では、事実を基に物語が構築され“警世の書”として大ベストセラーに。生涯、3000点以上の作品を残した。活動は作家の域に留まらず、1970年開幕の「大阪万博」で基本理念作りやテーマ館作りに携わり、他に「花博」の総合プロデュースなど積極的に活動。SF小説界を牽引し、日本の未来を考え続けた小松が伝えたかったメッセージに迫る。
  • 前編(6月28日放送)
    「誰よりも日本の未来を考えた男」

    1931年、小松は大阪で金属加工工場を営む家の次男坊として誕生。14歳の時に広島・長崎に原子爆弾が投下され、想像の産物だと思っていたものが現実に開発されたことに大きな衝撃を受ける。大学卒業後、実家の手伝いをしながら、海外のSFやミステリーを耽読し、日本初のSF専門誌“SFマガジン”の新人コンテストに応募。書き上げた「地には平和を」は選外努力賞となり、31歳で念願の作家デビューを果たす。その後、次々と新作を発表し売れっ子となった小松は、戦後、急激に発展した日本社会に危うさを感じ“もし大地震が起きたら?”と、「日本沈没」の執筆を開始する。「SFは絵空事」と捉えられないよう、事実を基に物語を構築することにこだわり、地殻が壊れ日本列島がどのように沈むのかなど自ら計算。構想から9年、「日本沈没」は1973年に出版され、480万部の大ベストセラーとなり、その後すぐに制作された映画も空前の大ヒットを記録する。

  • 後編(7月5日放送)
    「誰よりも日本の未来を考えた男」

    1964年、人気作家となった小松は、大阪万博開催の可能性についての新聞記事を見て「万国博を考える会」を発足。学者や文化人らと万博の具体的な話し合いを行う。1965年、独自に計画を練る小松らの会合を快く思っていなかった政府から、突然万博の基本理念の草案作りの協力を求められる。小松らは基本理念を練り上げ、これを元に大阪万博のテーマ「人類の進歩と調和」が誕生。万博開催が決定後、テーマ館のプロデューサーに岡本太郎、サブプロデューサーに小松が就任。二人は太陽の塔を中心にテーマ館の構想を打ち出し、地下が「過去」、地上は「現在」、空中は「未来」と3つに分け、それぞれの世界を表現。万博は77カ国が参加、6422万人が来場し大成功を収める。小松は、その後も積極的に活動を続け、1995年に発生した阪神淡路大震災では、被災地を周り、週1回新聞でルポを掲載。未来へ繋げるために全貌を記録し、災害を検証した「大震災95」をまとめる。