丹下健三(建築家)

丹下健三(建築家)
日本人ならではのコンクリート建築の礎を築いた丹下は、建築家として初めての大仕事で「広島平和記念公園」を手掛ける。1964年の東京オリンピックでは、水泳競技場となる「国立代々木競技場第一体育館」の建築で独創的な曲線の屋根の形を作り出す。手掛けたプロジェクトは「東京都庁舎」をはじめ、海外の都市計画を手掛けるなど31カ国330以上に及ぶ。そして1987年、日本人初となる建築界のノーベル賞プリツカー賞を受賞。多くの建築家に多大な影響を与え、常に使う人の立場で設計し続けた丹下の建築に込めた想いに迫る。
  • 前編(6月14日放送)
    「日本の底力を世界に示した男」

    1913年、大阪で生まれた丹下は、スイス人建築家ル・コルビュジエの作品に魅了され、建築家を志す。1935年22歳で東京帝国大学建築科に入学。しかし、1945年に父と母を続けて亡くす。終戦の翌年、東京大学建築科の助教授に就任した丹下は、全国都市復興計画で広島へ赴き、街づくりの基本計画を作成。その後、広島市主催の平和記念公園及び記念館建設のためのコンペ(競技設計)で、原爆ドームまで続く南北の軸線と、直行する東西の軸線上に主要施設を配置し、敷地の中央に5万人を収容する広場を設置するプランを考案する。この案は採用されるが、丹下が依頼した日系アメリカ人の彫刻家、イサム・ノグチがデザインした原爆慰霊碑が不採用となる。そこで丹下はノグチの慰霊碑の形を活かし、慰霊碑に近づくと原爆ドームがその枠に収まる仕掛けを施す。1955年、平和記念公園が完成、8月6日に平和祈念式典が行われる。丹下は、建築家としての初めての大仕事を成功させ、さらに国家プロジェクトの一端を任されることに…。

  • 後編(6月21日放送)
    「日本の底力を世界に示した男」

    1959年、東京オリンピックの開催が決まり、新たな屋内競技場の建築が検討されるなか、1万5000人収容の大規模な水泳競技場の設計者として丹下に白羽の矢が立つ。日本の建築様式を用いたコンクリート建築を得意とした丹下は、最新技術“吊り構造”で建物の屋根を美しい曲線に仕上げ、独創的な建物を生み出そうと決意する。ところが、現状のケーブルでは理想の曲線が生み出せないことが判明。しかし強度不足の部分のみ鉄骨を使用するアイデアで、より自由に形を作ることが可能になり、構造上の問題もクリア。設計から2年、ついに国立代々木競技場第一体育館が完成。1964年、東京オリンピックが開催され、国立代々木競技場第一体育館は水泳競技の会場として世界に配信、賞賛を浴びる。オリンピックをきっかけに、世界に名を知られるようになった丹下は、日本を代表する建築家として世界へと活躍の場を広げ、建築家としての頂点を極めていく。