福田赳夫(第67代内閣総理大臣)

福田赳夫(第67代内閣総理大臣)
福田は大蔵省を退官後、1952年に群馬三区で出馬し、無所属ながら初当選を果たす。1955年、岸信介や鳩山一郎らと自由民主党を結党。福田は、大蔵大臣就任中の1964年に「戦後初の赤字国債発行」の英断、1973年には徹底的な「総需要抑制策」を実行し、日本経済の危機を2度救う。1976年、第67代内閣総理大臣に就任。積極的に外交を行いアジアとの礎を築き、1978年「日中平和友好条約」に調印。総理退陣後は派閥の代表を安倍晋太郎に禅譲し、1990年に政界を引退する。政界を刷新し、日本経済を再建させた福田の政治理念に迫る。
  • 前編(5月3日放送)
    「世界にニッポンを認めさせた政治家」

    1905年、福田は群馬県に代々町長を務める政治家の家庭に生まれる。東大法学部を卒業後トップの成績で大蔵省に入省。エリート街道を駆け上るなか、1948年に昭和電工の贈収賄事件に巻き込まれて逮捕される。裁判で無実となるも45歳で退官し政治の道へ。1952年に群馬三区で出馬し初当選を果たし、岸信介や鳩山一郎らと共に自由民主党を結党。1964年、佐藤栄作総理により大蔵大臣に抜擢された福田は、日本経済が危機に瀕するなか、戦後初の国債発行を決断。これが功を奏し、景気は回復し日本は世界2位の経済大国に。しかしその後、総裁選に立候補するが田中角栄に敗北。日本経済は、田中政権が進めた日本列島改造論と石油ショックが重なり大インフレに陥る。田中から要請され、経済問題を一任すること条件に再び大蔵大臣に就任した福田は、「総需要抑制策」を実行。高騰した物価は沈静化に向かい、日本経済の危機を救う。

  • 後編(5月10日放送)
    「世界にニッポンを認めさせた政治家」

    1976年、三木武夫の後を受けて第67代内閣総理大臣に就任。石原慎太郎や海部俊樹ら40代の若手を積極的に起用し、新しい内閣がスタートする。大蔵大臣時代からアジア外交を重視していた福田は、後進国の経済発展に努める全方位平和外交を基本原則とし、国際間の連帯と協調を訴え、1977年にフィリピンで「福田ドクトリン」を発表。さらに、1972年以降止まっていた中国と関係改善に向け、「日中平和友好条約」締結に着手する。両国の溝がなかなか埋まらないなか、1978年ついに北京で条約が調印。ところが同年、福田は総理の座を退くことになる。一政治家として、全方位平和外交を追求する福田は、世界の元大統領や首相経験者に声をかけ、1983年に「OBサミット」を開催。サミットは東西冷戦の終結に一役買うなど成果を上げるが、1986年に安倍晋太郎に派閥の代表を譲り、1990年、政界を引退する。