萩本欽一(コメディアン)

萩本欽一(コメディアン)
1960年代、コント55号で一世を風靡。1970~80年代にかけて週3本の冠番組を持ち、その視聴率の合計が、なんと100%を超え、「視聴率100%男」と呼ばれる。また、長野オリンピック閉会式の総合司会や社会人野球の新球団立ち上げなど、新たなことにも果敢に挑戦。生涯現役コメディアンとして、73歳になった今も、新たな挑戦を続けている。 萩本はどのようにして、お茶の間の心をつかみ、テレビ史に燦然と輝く黄金期を作りあげたのか。そして、いつまでも愛され続ける「欽ちゃん」というキャラクターの原点に迫る。
  • 第1話(2月19日放送)
    「国民的コメディアンの信条」

    1941年、東京都台東区で生まれた萩本は、中学2年の時、父親がカメラ事業に失敗。大きな借金を抱え、萩本は涙ながらに、「お金持ちになり、大きい家を建てて母親を喜ばせる」と決意する。1960年、高校卒業後、萩本は浅草の『東洋劇場』でコメディアン兼雑用係として修業を開始。3か月後、演出家から、才能がないと言われた萩本は、人一倍の努力を誓い、毎朝8時に劇場に来て、誰もいない舞台で稽古に励む。そんなある日、萩本は、「生コマーシャル」に起用されるが、緊張して、NGを19回も出し降板。その後、売れるための足掛かりを作ろうと、エキストラの仕事を始めるが、3年たってもチャンスは巡って来ず、再び舞台に戻ろうと決意。浅草時代の仲間の紹介で熱海のホテルでコメディアンの職を得る。そして3か月の熱海逗留を終え、浅草へ戻る。そんな萩本の運命が、坂上二郎との出会いで大きく変わることになる。

  • 第2話(2月26日放送)
    「人生を変えたコント55号」

    1966年、萩本は、坂上二郎から声を掛けられ、一緒にコントやることになる。2人はコントの内容を練り込み、「机」というコントが誕生。これまでにない激しい動きと、不条理な内容のコントに、観客は唖然とするが、みるみるわき始め、最後は爆笑の渦となる。コント55号が面白い、という噂は、急速に広まっていき、ついに、テレビからも出演依頼が入る。コント55号の人気は爆発。「コント55号」の名前を付けた冠番組が次々に誕生する。不動の人気を築いたかに見えたが、結成から5年後、週刊誌に2人の不仲説の記事が掲載される。記事に書かれていたことは、ほとんどが誤解であったが、ウソでもこんなに大きく書かれたら、素直に笑ってもらえない、と感じた萩本と坂上は、コント55号の活動休止を決断。2人は別々の道を歩み始める。

  • 第3話(3月5日放送)
    「視聴率100%男の真実」

    1975年、「欽ちゃんのドンとやってみよう!」がスタート。視聴者から投稿されたハガキを萩本が、独断で面白さを評価する「ばかウケ・ややウケ・ドッチラケ」が流行語となる。その後、萩本は、茶の間の夫婦が、茶の間のセットで「お笑いドラマ」を見る、全く新しいホームドラマ・バラエティ番組「欽ちゃんのどこまでやるの?」をスタートさせる。番組の視聴率は常時30%を越え、絶頂期には42%を記録する。そして1982年には「欽ちゃんの週刊欽曜日」がスタート。番組から生まれた「欽ちゃんバンド」が人気となる。萩本の週3本のレギュラー番組は、いずれも視聴率30パーセント越え。合計して100%を越え、萩本は、視聴率100%男の異名を得る。テレビの頂点を極めた萩本だったが、突然の「充電宣言」をして、週3本のレギュラー番組をすべて降板してしまう。

  • 第4話(3月12日放送)
    「コメディアンにこだわり コメディアンを超えて…」

    視聴率100%男の異名得ていた萩本だったが、1985年、突然、充電を発表。 テレビから姿を消してしまう。半年間の充電後、萩本はテレビから少し距離を置きながら、新たなことに次々に挑戦。 1993年には短編オムニバス映画集を製作総指揮。2005年には、社会人硬式野球チーム「茨城ゴールデンゴールズ」を創設。 オーナー兼監督をつとめる。そして萩本は後進の育成にも取り組み、「欽ちゃん劇団」を旗揚げ。 若手を鍛え、テレビの世界に送り込む。1998年、萩本に長野オリンピック閉会式の総合司会の依頼が舞い込む。 テレビ初出演時に台本通りに台詞が言えず、番組を降板。 以来、台本通りに出来ないことがトラウマになっていた萩本だったが、台本通りに進行し、総合司会を務め上げ、過去のトラウマを払拭する。 そして現在、萩本はコメディアン人生の総まとめとして、萩本流の笑いのノウハウを後進に伝えるべく、コメディの教科書の作成を開始。 また、4月からは、駒澤大学に通い、勉強に励むなど、73歳になった今も、新たな挑戦を始めている。