村山富市(元内閣総理大臣)

村山富市(元内閣総理大臣)
1972年、48歳で衆議院議員に初当選。1993年、日本社会党党首に就任。38年ぶりに政権交代を果たした細川連立政権の最大与党党首として内閣を支える。 翌1994年。長年、政治的対極にあった自民党、そして新党さきがけと「自社さ連立政権」を樹立。 保守と革新の枠を越え、内閣総理大臣に就任する。総理在任中は、阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件など、日本を揺るがす数々の事件・事故に対応。 また被爆者援護法の制定や水俣病患者との和解など、それまで積み残された課題にけじめをつけるべく、奮闘する。 国会議員を辞めて14年、90歳の今も精力的に政治活動を行う村山の50年にも及ぶ、政治生活の真実と苦闘に4週に渡って迫る。
  • 第1話(12月25日放送)
    「保革対立を越え 総理になった男」

    1924年、大分市で、漁師の家に生まれた村山は、高等小学校を卒業後、14歳の時に上京。 印刷会社に住み込みで働きながら、東京市立商業学校の夜間部で学ぶ。 1942年、18歳の村山は、明治大学専門部政治経済科の夜間部に進学。 1944年、20歳の時に召集され、その翌年、終戦を迎える。終戦後、明治大学を卒業し、故郷の大分に戻った村山は、1947年に社会党に入党。 1951年、大分市議会議員選挙に立候補。落選するが、1955年、2度目の挑戦となる大分市議選で、初当選。 市議会議員を2期務める。1963年、県議会議員選挙に立候補し、トップ当選。その後の県議会議員選挙でも、3期連続で当選する。 1972年、社会党から衆議院選挙への出馬を打診され、48歳の村山は、大分県選挙区から衆議院総選挙に出馬し、トップ当選。 国会では、社会労働委員会で活動。福祉、医療、年金などの問題に取り組み、その後の総選挙でもトップ当選を続け、大衆政治家として絶大な支持を受ける。

  • 第2話(1月1日放送)
    「総理就任!茨の道へ…」

    1980年の衆参同時選挙で、まさかの落選をした村山だったが、1983年の衆議院選挙で当選し、国政に復帰。 その後、予算委員会の理事や国会対策委員長を歴任する。1992年、宮沢内閣が不信任案を可決され、翌年の総選挙で、与党自民党が過半数割れ。 日本新党の細川総理を首班とする非自民8党派連立内閣が誕生する。社会党も、最大与党として連立政権に参加するが、選挙結果は惨敗。 その責任を取り、党首の山花貞夫委員長が辞任し、村山が新党首となる。 連立内閣発足当初はクリーンでオープンな政治が期待されていたが、自らの献金問題により、8カ月で細川総理が辞任。 その後、連立与党内に、社会党とさきがけを抜きにした統一会派が密かに結成され、村山は、政権離脱を決断。総理大臣の座をめぐり、 社会党が抜けた連立与党は、元首相の海部俊樹を擁立。そして、野党の自民党から、長年のライバル政党である社会党の村山を総理に推すことを打診される。

  • 第3話(1月8日放送)
    「保革連立政権!迫られた決断」

    1994年、村山は自民・社会・さきがけ、3党の連立で、第81代内閣総理大臣に就任するが、 これまで、激しく対立してきた自民党との連立政権に野合政権と批判される。 総理に就任してまもなく、村山はナポリサミットに参加。欧米では、「社会主義者の政権が誕生した」と警戒心を持たれる中、 サミットに先駆け、日米首脳会談が行われる。 村山は率直にクリントン大統領と話し合い、日米安保の堅持などを伝え、クリントン大統領を安心させる。 サミットから帰国した村山は、国会で所信表明演説に臨み、自衛隊の合憲、日の丸・君が代の容認など、党内の反対を押し切り、 それまでの社会党の主張を大きく転換する政策を表明。 一方で村山は、社会党の総理でなければできないと思われた課題に、積極的に取り組み、「被爆者援護法」を制定。 また、水俣病の患者団体と企業・国の和解を実現する。 しかし、総理となった翌年の1995年、村山の想像もしなかった出来事が襲い掛かる。

  • 第4話(1月15日放送)
    「信義を貫き 成し遂げた使命」

    総理大臣就任から半年後の1995年1月17日、阪神淡路大震災が発生。 兵庫県では6,400人以上が犠牲になり、内閣の危機管理の甘さを糾弾される。 初動の遅れを取り戻すべく、村山は、関係省庁に総力を挙げて人命救助にあたるよう指示。 震災の教訓を活かし、官邸の危機管理体制の強化に努めると共に、災害対策基本法や自衛隊法を改正する。 阪神淡路大震災から2ヶ月後。オウム真理教による「地下鉄サリン事件」が発生。 村山は、阪神淡路大震災の経験を活かし、迅速に対応する。 さらに、地下鉄サリン事件から3か月後、函館で、ハイジャック事件が発生。 村山は、迅速かつ冷静な判断で解決に導く。 また戦後50年の節目となるこの年の終戦記念日で、村山は、日本の戦争責任を明確にし、おわびの気持ちを込めた、 村山談話を発表。平和国家日本の決意を国の内外に示す。 1996年、村山は総理就任から1年半で、内閣総理大臣を辞任。 そして、国会議員を辞め、90歳の今も、日本とアジアの架け橋となり、真の友好を築き上げるべく、村山の活動は続いている。