川淵三郎(日本サッカー協会・最高顧問)

明石康(元国連事務次長)
川淵三郎・77歳。日本サッカーのみならず、スポーツを通じた社会貢献に尽力してきた。22歳でサッカー日本代表に初めて選出され、東京オリンピックではベスト8に進出。1993年、プロサッカーリーグ「Jリーグ」創設の立役者となり、初代チェアマンとして、日本にサッカーを根付かせるために奮闘。一方で、日本代表をワールドカップの常連にするため、その環境づくりに力を注いできた。現在も日本サッカー協会の最高顧問として活動。アスリートが先生となって子供達と夢を語り合う「こころのプロジェクト」などを行い、サッカーの枠を超えて、幅広く社会貢献している。サッカーとともに人生を歩んできた川淵。だが、その裏側にはサッカーの仕事を続けることへの迷いや苦悩があった。
  • 第1話(9月18日放送)
    「日本のサッカーを世界レベルにした男」

    1936年、大阪府で生まれ、中学生まではサッカーとは縁のない生活を送った川淵は、サッカー強豪校・三国丘高校に入学。サッカー部に入部すると、サッカーの技術を上達させ、3年の全国選手権でベスト8入り、新聞に「超高校級フォワード」と紹介される。1957年、川淵は早稲田大学に入学。翌年には日本代表に初選出される。1961年、社会人サッカーの強豪・古河電工に入社。東京オリンピックに向けて熾烈なレギュラー争いが繰り広げられる中、早稲田大学1年の天才フォワード・釜本邦茂が代表入りする。1964年、東京オリンピックが開幕。初戦は優勝候補のアルゼンチン。アルゼンチンのリードで後半を迎えるが、川淵のゴールで同点に追いついた日本は、逆転に成功。オリンピックで28年ぶりに勝利し、その後、ベスト8入りを果たす。

  • 第2話(9月25日放送)
    「Jリーグ実現のために…」

    1970年、川淵は33歳でサッカー選手を引退。古河電工のコーチになり、2年目の途中から監督に昇格。組織の責任者として多くのことを学ぶ。 1980年、監督を辞めた川淵は、日本リーグの運営に携わり、「日本サッカー協会強化部長」になると日本代表を全て25歳以下にするという大幅な若返りを図るが、代表監督が倒れたため、川淵がスペインW杯予選の監督代行を務めることになる。 しかし、協会の体質に嫌気が差し、ロサンゼルス五輪予選敗退を機に川淵はサッカーのすべての公職から退いてしまう。 古河電工の重役になって定年を迎えたい、と仕事に没頭するが、古河産業への出向を命じられ、川淵は、『サラリーマン人生の先が見えた』と落胆。 同じ頃、川淵に日本リーグのプロ化に向けたかじ取り役である「日本サッカーリーグの総務主事」就任の打診がある。 ここから先の人生、サッカーの大改革に賭けようと、それに就任。日本初のプロリーグ創設に向けて、動き出す。

  • 第3話(10月2日放送)
    「Jリーグの危機・・・下した決断!?」

    1990年、プロリーグ創設の責任者だった川淵は参加チームの募集を開始。1991年、Jリーグに参加する10チームが決定し、社団法人日本プロサッカーリーグが発足する。 2年後の1993年5月、ついにJリーグが開幕。 Jリーグの試合に日本中が熱狂し、一大ブームを巻き起こす。 開幕した1993年から3年間で、クラブ数は10から14に増え、リーグの運営も順調だったが、右肩上がりで増えていたリーグ全体の収入も、96年から次第に減り始める。 そして、1998年、横浜フリューゲルスを全日空と共同で支えてきた佐藤工業が撤退を決定。横浜マリノスに合併を持ちかけ、川淵は苦悩の末、合併を承諾する。 川淵は、この経験を糧に、Jリーグの改革に乗り出し、各クラブに身の丈に合った経営を徹底させる。 Jリーグ始まって以来の危機を乗り越えた川淵だったが、さらに追い詰められる事態が発生する…

  • 第4話(10月9日放送)
    「サッカーで 日本を変えていく!」

    1991年、川淵は日本代表強化の総責任者である日本サッカー協会の強化委員長に就任。 代表監督に日本サッカー史上初の外国人監督ハンス・オフトを迎え、アメリカW杯最終予選に臨むが、惜しくもW杯出場を逃してしまう。 1997年、加茂監督の下、W杯初出場を目指し最終予選に進んだ日本代表だったが、成績が振るわず、川淵は加茂を解任。 コーチの岡田武史を監督に据える。 その後、日本代表はW杯出場を決め、初めてW杯の舞台に立つが、グループリーグで敗退。 しかし続く、2002年の日韓W杯では、ベスト16入りを成し遂げる。 2006年、日本代表は名将ハンス・オシムを監督に迎えるが、急性脳梗塞により退任。 オシムの後任に選ばれた岡田武史は2010年の南アフリカW杯で、日本代表をベスト16に導く。 川淵は、岡田の就任を成立させた後、日本サッカー協会会長を退任するが、その後も社会貢献活動を通じ、サッカーやスポーツ文化の発展に力を注ぎ続けている。