明石康(元国連事務次長)

明石康(元国連事務次長)
日本人初の「国連」職員となり、国連職員組合委員長や広報局・事務次長、軍縮担当の事務次長などを歴任する。1992年から始まった「国連最大の挑戦」と言われたカンボジアにおける国連平和維持活動・PKO。その大仕事に明石は、トップとして重責を担う。1994年には、国連史上最大4万5000人もの要員を率い、旧ユーゴ紛争のPKOに挑む。国際紛争の解決と平和のために活動してきた明石の苦難の道に迫る。
  • 第1話(8月21日放送)
    「国連No2、不屈の精神力」

    1931年に5人兄弟の末っ子として生まれた明石は14歳の時に終戦を迎える。1950年、東京大学・教養学部に入学。アメリカ科を専攻し、「アメリカ思想」と「文化人類学」を学ぶ。アメリカへの関心が高まった明石は大学卒業後、アメリカへ留学する。アメリカ留学中、明石は、国際学生セミナーで極東の政治情勢について語った際、国連事務局のジョーダン政務部長が、明石の話に興味を持つ。ジョーダン氏は日本が国連に加盟したら、国連の政務担当官に応募するように、と明石を勧誘。1956年、日本が国連に加盟。明石はジョーダン氏を訪ね、ジョーダン氏は明石をその場で上司に紹介する。日本の国連加盟から2か月後の1957年2月11日。明石は日本人初の国連職員として採用され、第一歩を踏み出す。そして、歴史的な国際紛争の舞台へ呑み込まれていく。

  • 第2話(8月28日放送)
    「命がけのカンボジア和平」

    1957年、26歳で日本人初の国際連合職員になった明石は、1962年、31歳で国連職員組合委員長に選出される。ブレア・ビヘア寺院の領有権をめぐってタイとカンボジアの関係が緊迫した際には、“火消し役”として両国の間を足しげく往復するが、調停は不調に終わる。1987年、明石は軍縮担当の事務次長に就任。第3回軍縮特別総会を開催するが、地球レベルでの軍縮を採択することはできず、明石は国連の限界を感じる。1992年、20年にも及ぶ4派による内戦の終結、そして総選挙の実施が決定したカンボジアで、明石はカンボジア暫定統治機構UNTAC(アンタック)のトップとして民主選挙を実現させるためカンボジアに降り立つ。しかし、4派のひとつであるポル・ポト派が反旗を翻し、選挙参加を拒否。UNTACに対しても敵意を見せ始め、明石の暗殺計画も浮上する…

  • 第3話(9月4日放送)
    「国連活動の限界に挑む!」

    カンボジアPKOを成功に導いた明石は、旧ユーゴスラビアでのPKOの指揮を命じられ、1994年、国連史上最大4万5000人を率い、サラエボに入る。 しかし着任から1か月後、市場に迫撃砲弾が撃ち込まれ、死者68人、負傷者200人にも及ぶ惨事が発生。 さらに、国連が非戦闘地域に指定していたゴラジュデでも、セルビア人勢力が攻撃を開始する。 明石は、自衛のための限定空爆を決断するが、セルビア人勢力は報復として国連要員120名を拘束。 明石は断固とした態度でセルビア人勢力に迫り、全員を無事解放させる。 しかし明石の指揮はアメリカで批判の対象となり、国連も本格空爆実施への流れに傾く。 明石は本格空爆を止めるため、セルビア人勢力と交渉するが、その最中、NATOが空爆の実施を決定。 タイムリミットが迫る中、長時間に及ぶ交渉の末、停戦合意にこぎつけ、本格空爆を回避する。 1995年、NATOに主な仕事を引き継ぎ、明石の任務は完了。そして明石は国連を退官するが、それは新たな挑戦の始まりだった。

  • 第4話(9月11日放送)
    「日本の新たな役割とは?」

    1997年、66歳で国連を退官した明石は翌年の4月から、広島平和研究所の所長に就任。核軍縮・核の不拡散を訴える。 2002年には長い内戦の末、停戦合意が成立したスリランカ政府から依頼を受け、日本政府代表として国連時代の経験を活かし、和平交渉のアドバイスを行う。 さらに、貧困に苦しむスリランカ国民のため、スリランカ復興開発会議を開催。 世界51か国と22の国際機関が参加し、およそ4500億円もの巨額の援助が集まる。 また明石の発案で2010年から始まった日本・中国・韓国の国連協会が連携して、三か国の学生が国籍を超え、どのように協力し合う事ができるか議論する日中韓ユースフォーラムでの取り組み、そして日本で学んだアジア各国の研究者が集まり、アジアの未来について話し合うアジア未来会議の会長を務めるなど、国際社会の中での日本の役割を考え続ける。