篠田正浩(映画監督)

篠田正浩(映画監督)
映画監督・篠田正浩、83歳。1960年、29歳の時に映画監督デビュー。自由奔放な独自のスタイルと反権威主義を貫き、映画会社の伝統に囚われない作風から、松竹ヌーベルバーグの旗手として注目を集める。その後は、「瀬戸内少年野球団」をはじめとする良質なエンターテイメント映画を次々に発表。1986年には、「鑓の権三」で、ベルリン国際映画祭銀熊賞を受賞。晩年は、「スパイ・ゾルゲ」に代表される国際的スケールの作品を世に送り大きな話題を呼んだ、日本を代表する映画監督である。 その華々しい活躍の影に隠された挫折と苦悩の日々を4週に渡って紐解く。
  • 第1話(7月24日放送)
    「走り始めた映画への道」

    篠田正浩は1931年、岐阜県芥見村、現在の岐阜市に生まれる。中学に合格した篠田は、お祝いに母と見た黒澤明監督のデビュー作、「姿三四郎」に圧倒され、終戦後にはジョン・ウェインやゲーリー・クーパーらの西部劇に魅了される。高校に入学した篠田は走ることにのめり込み、国体の高校男子400メートルに出場するが、予選で敗退。このままでは引き下がれないと、陸上競技への思いを熱くする。その後、早稲田大学第一文学部へ入学。競走部に入部した篠田は、1年生ながら箱根駅伝の大舞台に立つ。花の2区を任され、準優勝に貢献。しかし、アキレス腱の故障で選手としての活躍はできなくなってしまう。1953年、大学を卒業した篠田は、松竹大船撮影所の助監督試験を受ける。最初の仕事に、美空ひばりのミュージカル映画を担当するが、大学で得た知識がまったく通用しないことを痛感する。

  • 第2話(7月31日放送)
    「絶望の淵から 拓いた活路」

    1953年、松竹大船撮影所で助監督を始めた篠田は、元陸上選手という経歴から体力仕事ばかりを命じられ、日数も予算も少ないハードなロケの映画の助監督ばかりを任される。周りの助監督は次々に出世するが、その一方で、篠田は様々な監督の下で、使い回される日々が続き、次第に焦り出す。そんな中、篠田にもようやくチャンスが訪れ、1960年に監督としてデビューを飾る。当時、松竹では、監督デビューする際には、その時期に最もヒットしている歌謡曲を使った映画を演出させるのが慣例となっていた。しかし、会社の方針に反し、篠田が撮ったのは、ニール・セダカの「恋の片道切符」をカバーした、ロカビリー音楽の映画。撮影所内の試写での評判は上々だったが、興行は振るわず、篠田は助監督に戻されてしまう。

  • 第3話(8月7日放送)
    「新天地を求めて」

    1960年、デビュー作の興行に失敗し助監督に戻された篠田は、再びチャンスを与えられ、新進気鋭の詩人・寺山修司に脚本依頼し、学生運動を題材にした小説「乾いた湖」の映画化に挑む。ヒロインには、後に篠田の妻となる新人女優の岩下志麻を起用。この作品で篠田は、それまでの松竹映画とは一線を画し、若者たちの退廃や過激な風俗描写に挑戦。作品はヒットし、これを機に篠田は、“松竹ヌーベルバーグ”の旗手と呼ばれる。しかしその後、カラーテレビが多くの家庭に普及し、映画館は、不入りの日々が続く。篠田は、会社の期待を担い、猿飛佐助を主人公にした映画の撮影を始めるが、興行は振るわず、やがて京都撮影所は閉鎖。自宅待機という名のレイオフが通告され、篠田はこの撮影所に残るわけにはいかないと考える。松竹を離れた篠田は、岩下志麻と慎ましやかな結婚式を挙げるが、私生活での幸せとは逆に仕事の状況は険しさを増しいく。

  • 第4話(8月14日放送)
    「時代に抗い続けて・・・」

    1969年、松竹から独立した篠田は、「心中天網島」を製作。映画館から観客離れが進む厳しい状況の中、映画は大ヒット。この年のキネマ旬報1位を獲得する。1972年、篠田は札幌オリンピックの記録映画の総監督に指名される。元陸上選手ならではの視点から、敗者にもスポットを当て、これまでにないスポーツ映画に仕上げる。1986年には「鑓の権三」で、ベルリン国際映画祭・銀熊賞を受賞。滞在中にベルリンの壁を目の当たりにした篠田は、冷戦の凄まじさを思い知らされ、戦争を体験した映画監督として、昭和の時代をテーマにした作品を撮るべき宿命を感じる。その後、篠田は自らの映画人生の集大成となる作品「スパイ・ゾルゲ」の製作を開始。当時の銀座や上海の街並みをリアルに再現する為に、日本人監督として初めて最新CG技術を導入。総製作費20億円を投じ、2003年に「スパイ・ゾルゲ」は公開される。そして、映画界入りしてちょうど50年となるこの年、「スパイ・ゾルゲ」の製作に全身全霊を投げ打った篠田は、惜しまれながらも引退をする。