桂文枝(落語家)

桂文枝
上方落語協会会長の桂文枝は1966年、22歳の時に桂小文枝の内弟子になり桂三枝として落語の世界に足を踏み入れる。落語家としての修行を続ける一方、テレビやラジオで多くのレギュラー番組を抱え、タレントとして全国区の人気となる。40代以降は、創作落語を次々と生み出し、これまで生み出した噺は、200以上。還暦を迎えた2003年には上方落語協会の会長に就任。そして2012年には、大名跡の「桂文枝」を襲名。長年、落語界のトップを走り続け、70歳にして、日本の落語界を牽引し続ける桂文枝。40年にわたり、落語界のトップを走り続けた文枝だが、若き日には芸の道を歩むことへの葛藤があった。
  • 第1話(6月26日放送)
    「落語家への憧れと挫折」

    1943年、大阪府堺市に生まれた桂文枝は1959年、大阪市立市岡商業高校に入学。家にテレビが入り、バラエティー番組に夢中になった文枝は同級生とコンビを組み、ラジオの素人番組にも出演するほどの人気コンビとなる。しかしプロの芸人として活躍していた先輩の舞台を見て、自信を失う。その後、浪人生活を経て関西大学に入学した文枝は、秋に学内で開かれた落語会で、当時、上方落語の若手人気ナンバーワンだった桂米朝の落語を見る。米朝の落語を見て、自分が打ち込むべき対象は落語なのではないか、と直感的に閃いた文枝は「関西大学落語大学」に入り「浪漫亭ちっく」として、よその大学の学園祭に呼ばれるほどの評判を得る。落語家への憧れは強くなり、桂小文枝に弟子入りするが・・・。

  • 第2話(7月3日放送)
    「待望の初舞台…苦難の始まり」

    小文枝師匠から「桂三枝」という名前をもらった文枝は、1967年、初高座に上がるが、全くうけずに客席は静まりかえり、プロの世界の厳しさを思い知る。落語では客にうけずに苦悩するが、意外な方面から仕事が舞い込む。深夜のラジオ番組のオーディションを受け、「歌え!MBSヤングタウン」への出演が決定。半年後には、番組は押しも押されもせぬ人気番組に。さらに吉本興業からスカウトされ、専属の落語家となる。文枝の人気はうなぎのぼりとなるが、本業の落語では依然苦しんでいた。

  • 第3話(7月10日放送)
    「人気絶頂!その陰で・・・ 」

    入門から1年足らずの24歳で文枝はラジオ番組「歌え!MBSヤングタウン」の司会者に抜擢される。番組は若者から高い支持を集め、テレビやラジオのオファーが殺到する。1969年にスタートした「ヤングおー!おー!」は、若者の熱狂的な支持を集め、高視聴率を獲得。その後、「新婚さんいらっしゃい!」、「パンチDEデート」など次々と番組をヒットさせ、全国区の人気タレントとなっていく。しかし、タレントとして人気が頂点に達する一方、本業の落語は、全く受けずに悩んでいた文枝だった。そんなある日、寄席で目にした桂文紅の現代風な創作落語に釘付けになる。さっそく、文紅を訪ねてネタをもらった文枝は、話をアレンジして披露する。自分に向いているのは、現代性のある落語かもしれないと手応えをつかんだ文枝だったが、その矢先に自律神経失調症になり、仕事をセーブしなければならなくなってしまう。

  • 第4話(7月17日放送)
    「落語の未来のために」

    1981年、創作落語に取り組み始めた文枝はその面白さに気づき、没頭していく。そして、大阪の中堅・若手落語家に呼びかけて、「創作落語の会」を開催。熱気と笑いに満ちた超満員の会場に、手応えをつかむ。文枝は後世に残るような創作落語を作りたいと、古典落語に終止符を打つことを決断。坂本龍馬と幕末の志士たちが、ゴルフを通じて日本の行末を話し合う「ゴルフ夜明け前」を創作し、この年、文化庁芸術祭大賞を受賞する。2000年には、毎月創作落語のみ、計125作を高座にかけるという、前代未聞の挑戦を開始。3年半にわたって行なわれた「創作落語125選」を文枝は見事やり遂げ、2度目の文化庁芸術祭大賞を受賞する。60歳で上方落語協会6代目の会長に就任。長年の悲願とされてきた落語専門劇場の建設に奔走。2006年9月に念願の上方落語の定席「天満天神繁昌亭」が完成。そして2012年、偉大な師匠の跡を継ぎ、六代 桂文枝を襲名する。