茂木友三郎(キッコーマン名誉会長)

茂木友三郎(キッコーマン名誉会長)
日本の食品メーカーとして初めてアメリカに進出し、現地に醤油を根付かせることに成功。そして現在では世界100か国以上で醤油を販売し、年間営業利益およそ200億円のうち、実に7割近くを海外が占めるグローバル企業に育てあげた。醤油という、まさに日本の味の普及にその半生をかけてきた茂木。そんな茂木の海外進出にかける情熱と、その舞台裏を4週に渡って紐解く。
  • 第1話(5月29日放送)
    「日本の味 醤油を世界に広めた男」

    1935年、キッコーマンの創業8家のひとつに生まれた茂木は慶応大学法学部を卒業後、キッコーマンに入社。入社と同時に休職を願い出てアメリカ・ニューヨークのコロンビア大学院へ留学し、勉強漬けの日々を送る。留学中の夏休み、スーパーで醤油のデモンストレーションを手伝った茂木は次々に醤油に対し興味を示すアメリカ人を見て、アメリカには醤油の潜在的な需要があると気づく。2年間の課程を終えた茂木は日本人初の経営学修士(MBA)を取得。帰国後、キッコーマンに復職した茂木は世界に醤油を広げたいという思いを胸に仕事に励む。1965年、30歳になった茂木は会社の長期計画を担当。真のグローバル化に向けアメリカに工場建設を提案する。

  • 第2話(6月5日放送)
    「日本初 米国進出に立ちふさがる壁」

    1965年、管理課企画係の主任となった茂木はアメリカに工場建設を提案。しかしアメリカに工場を建設するには巨額の投資が必要であり、会社は時期尚早と判断する。アメリカ法人を黒字化するためには現地生産が必要だと思った茂木は、アメリカでの醤油の需要を予測し、コストを試算。5年で累積欠損が解消できるとはじき出した茂木は、取締役会に稟議書を提出。ついに建設の許可が降りる。半年後、建設地をウィスコンシン州ウォルワースに決定するが、地元住民が工場建設に反対。醤油とは何かが、理解されていないと感じた茂木は群議会の公聴会に向け、自ら醤油の製造過程のスライドを作り、住民を個別に訪問するなど住民の理解を得るため奔走する。

  • 第3話(6月12日放送)
    「世界制覇のカギ ヨーロッパを攻略せよ」

    1973年、アメリカで工場の設立を成功させた茂木だったが、その4か月後に第一次オイルショックが発生。その影響でアメリカ工場は2年続けて赤字を計上。茂木は、何度もアメリカを訪れ販売会社に「しょうゆ需要の将来性」を説き続け、家庭向けのレシピの開発にも着手。経済状態が安定してくると、しょうゆは順調に売れ始め、工場が完成してから30年間二桁成長を実 現する。1979年、44歳で取締役になり海外事業全般を任された茂木は新たなターゲットをヨーロッパに設定。その一方で生産拠点として、ヨーロッパに輸出する際に関税が安くなるシンガポールに目を付け、苦戦していたヨーロッパ市場に安くしょうゆを供給できるシステムを整える。1994年、茂木はキッコーマンの社長に就任。急速に需要が伸びていた欧州で現地生産を行うため、1997年、オランダに工場を設立。以来、ヨーロッパで毎年二桁成長を続ける。しかし、好調な海外とは裏腹に、日本では醤油の消費量が減少。茂木は国内のしょうゆ販売に危機感を抱いていた。

  • 最終話(6月19日放送)
    「守らず攻めろ!終わりなき挑戦」

    しょうゆの国内需要の減少に危機感を募らせた茂木は社内の反対を押し切り、キッコーマンが原材料の醤油を売っている「つゆ・たれ」分野への進出を決断。商品を発売した途端、つゆ・たれメーカーに原材料しょうゆの取引を停止されてしまう。しかし「つゆ・たれ」の製造に踏み切る方が会社のためになると判断した茂木は、新商品を消費者に浸透させるため、売り上げと同じ額の広告宣伝費を投じ、「つゆ」と「たれ」をキッコーマンの人気商品に育て上げる。その後も、茂木は、社会のニーズを掘り起こし、新たなヒット商品を生み出し、しょうゆの需要が減少しても「攻め続けられる企業」に改革する。キッコーマンの国内改革を成し遂げた茂木は2004年に会長、2011年には名誉会長となるが、取締役会の議長を現在でも務める。さらに今年、茂木は公益財団法人日本生産性本部の会長に就任。日本の国際競争力を高めるために自らの豊富な経験を活かして提言を行っている。