森英恵(ファッションデザイナー)

森英恵(ファッションデザイナー)
日本人デザイナーとしてはじめてニューヨークコレクションに参加し、1975年にはパリコレクションにデビュー。東洋の美を華やかな色彩で表現し人々を魅了する。1977年には、ファッション業界で最も権威のある「フランス・オートクチュール組合」からアジア人デザイナー初の会員に認められる。また、バルセロナオリンピック日本選手団の公式ユニホームや皇太子妃・雅子さまが結婚の儀に着用されたローブ・デコルデ(最高礼服)のデザインも担当。文化勲章やフランスのレジオン・ドヌール勲章も受勲している日本を代表するファッションデザイナーである。そんな華やかな活躍をしてきた森だが、その影には隠された若き日の苦悩があった。
  • 第1話(5月1日放送)
    「世界のモリ・ハナエ 主婦からの挑戦」

    1926年、島根県に生まれた森は、小学校4年生の時に東京に移住。高校卒業後、医師である父の勧めを断り、東京女子大学に入学する。大学に入学するや、戦争が激しくなり自由が奪われる中、森はミシンを踏み、粗末な生地で衣服を作るのをささやかな楽しみとして過ごす。終戦を迎え、大学を卒業。森は23歳の時に結婚するが、2ヵ月もすると専業主婦が退屈に感じ洋裁学校に入学し、ドレスメーキングのノウハウを学ぶ。卒業後、新宿に小さな洋裁店を開店。服作りに忙しい日々を送る。やがて森は多くの人に自らの作品を見て貰いたいと思うようになり、店のわきにある喫茶店でファッションショーを開催。ショーを重ねるごとに人が集まり、交通整理に警官が出動するほどの大盛況となる。そして若手デザイナーとして注目を集めた森のもとに映画の衣装制作の依頼が舞い込んでくる。

  • 第2話(5月8日放送)
    「偏見との闘い」

    28歳の時、森は日活からの依頼で映画衣装作りを開始。様々なタイプの女性の役柄に合う衣装作りは、容易ではなかったが、努力の甲斐あって次第に森の仕事は評判を呼び、日活以外の会社からも依頼が来るようになる。しかし当時の映画界では衣装デザインに対する理解は十分ではなく、森の名前がスクリーンに出ることはなかった。森は悔しさをバネに仕事に打ち込み続け、ついに森の名前が衣装デザイナーとして日本で初めてスクリーンに出ることになる。デザイナーの地位が認められ喜んだ森だったが、2人の息子を抱え仕事と子育ての両方に追われる内に次第に自信を失い、デザイナーをやめることを考える。だが、友人のファッション雑誌編集長の勧めで初めてパリを訪れると、ココ・シャネルのスタイルに衝撃を受け、早速スーツをオーダー。それぞれプロフェッショナルが分業で仕事をするシステムに驚くと同時に、デザイナーの仕事を続けることを決意する。

  • 第3話(5月15日放送)
    「いざ モードの頂点へ」

    1961年、森は海外挑戦を決意。日本の服は欧米のコピーでしかないと考えられていた時代、森は日本製の布地と日本の職人だけを使って外国人が見たこともないような斬新なデザインを模索する。そして準備を重ね1965年。森はニューヨークのトップデザイナーたちのコレクションに招待され、平安時代の雅を意識した、華やかな色彩を多用したデザインを披露。有名服飾店などの関係者が森の元を訪れビジネスが急拡大。ファッション雑誌にも季節ごとに森の作品が大きく紹介されるようになる。そして1970年にはニューヨークの高級ホテルにブティックを開店。森のデザインする服は、アメリカのマーケットに認められていくが、いつしか森はアメリカ的な商業主義の枠にはめられていくことに不安を感じるようになる。

  • 第4話(5月22日放送)
    「自ら道を 拓き続けて…」

    ニューヨークで認められた森は、ヨーロッパを舞台に活動したいと考えるようになる。そんな最中、モナコのグレース王妃からの招待を受け、森はモナコでショーを開催。その成功を受け、パリのオートクチュール界にデビュー。アジア人初のクチュリエとなり、たった一人の東洋人デザイナーとして仕事に邁進。森は、JALの客室乗務員の制服やオリンピック日本選手団の公式ユニホームなど、先駆者としての道を次々と切り拓いていく。