宮内義彦(オリックス 会長)

宮内義彦(オリックス 会長)
大学卒業後、アメリカ留学を経て日綿實業に入社した宮内義彦は、28歳の時に当時ほとんど知られていなかったリース業というビジネスモデルを日本に持ち込み、オリックスの前身「オリエント・リース」設立の中心メンバーとして活躍する。そして45歳の若さで社長に就任。リース業以外の様々なビジネスでも成功を収め、プロ野球球団の買収も手掛ける。1998年にはニューヨーク証券取引所に上場。さらに社外でも規制改革の急先鋒として政府に様々な提言を行い、辣腕をふるってきた。新たな挑戦をし、次々と成功させてきた宮内の人生。しかし、そこに至るまでには様々な壁にぶつかり、苦しみ、迷う日々があった。
  • 第1話(4月3日放送)
    「日本初のビジネスに挑んだ男」

    1935年、兵庫県神戸市に生まれた宮内は戦争の被害を避けるため、疎開生活を繰り返す少年時代を過ごす。小学校4年生の時に終戦を迎えるが、今までの教育が掌を返したように変わったことに権威主義への疑問が芽生える。その後、関西学院中等部、高等部を経て、関西学院大学卒業した宮内はアメリカに2年間留学し、MBAを取得。帰国後、日綿實業に就職する。しかし留学経験やMBAを生かせず、海外での仕事がしたいという思いが募る中、宮内はリース業という新しい業態を日本で興すため、そのノウハウをアメリカで学ぶように指示される。サンフランシスコの「USリース」を訪れた宮内は、副会長のショーンフェルドからリース業のノウハウを叩き込まれ、約3ヵ月の研修を終えて帰国。帰国後、宮内は商社や銀行から集まった12人とオリックスの前身「オリエント・リース」設立へと動き出す。

  • 第2話(4月10日放送)
    「トップ就任!成功への茨の道」

    アメリカでリース業の基本を学んだ宮内は各社から集まった13人で1964年に「オリエント・リース」を設立。本当の意味でのリース業を理解していたのは宮内一人という状況の中、社内外で説明会を開き、リースの概念の浸透を図った。始めは期間限定の出向のつもりだった宮内だが、リースの仕事に可能性に魅了され「オリエント・リース」に転籍。会社も順調に業績を伸ばしていく。その後、オイルショックの影響による資金繰りの悪化の危機を乗り越え、宮内は1980年に45歳で社長に就任。社長就任と共に経営の多角化に乗り出し、中でも船舶事業は急成長を遂げる。ところが、船価が突然暴落。会社の屋台骨を支えていた船舶事業に陰りが生じ、宮内は最大の危機を迎える。

  • 第3話(4月17日放送)
    「相次ぐ危機!試されるリーダーシップ」

    過剰なまでの船舶の増加により船価が暴落し、船舶不況が到来。膨大な損失が発生する危機を乗り切った宮内は、事業が多角化し、もはやリース業と呼べなくなった会社を「オリックス」と名称変更することを決定。その矢先、阪急電鉄から球団売却の打診があり、会社の名前を世に広める好機と判断した宮内は、球団の買収を決断する。また、同時期、世の中はバブルの真っただ中で、金融業界を挙げての貸し出し競争に巻き込まれる。しかし、ある銀行の頭取の言葉で我に返った宮内は、不動産金融の縮小を決断。その後、バブルは崩壊。多くの同業社が経営破たんしていく中、オリックスは宮内の経営判断でバブル崩壊の影響を最小限にとどめる。宮内はバブル崩壊後の日本を憂い、新たな挑戦に打って出る。

  • 第4話(4月24日放送)
    「規制改革へ熱き闘い」

    50歳になった宮内は経済同友会へ入会。1994年には副代表幹事に就任する。提言が政策当局に直接届くような影響力に驚くと同時に、経済界の存在意義を悟った宮内は、政府への提言に使命を感じ、尽力する。そして、1995年4月、行政改革委員会に規制緩和小委員会が発足し、宮内も参加。民間の経済活動の規制の撤廃や緩和に取り組み、着実に成果を上げていく。続いて宮内が挑んだのは医療や教育などの公共サービスの規制緩和。そしてその動きを後押しするかのように2001年、構造改革を旗印に掲げた小泉純一郎が首相に就任する。強力に改革を支えようとした小泉首相の元、宮内は総合規制改革の議長に就任。規制改革へ突き進もうとするが、改革に反対する人々の猛烈な反対運動が起き、さらに宮内を総合規制改革の議長から降ろそうとする動きが起き始める。