福原義春(資生堂 名誉会長)

福原義春(資生堂 名誉会長)
資生堂の創業者の孫として誕生した福原義春は大学卒業後、1953年に資生堂に入社。アメリカ子会社の社長を経て、商品開発部の部長としてヒット商品を生み出す。その後外国部の部長として資生堂ブランドの世界進出を成功に導く。そして資生堂の第10代社長に就任。過剰在庫の処理や社員の意識改革など経営改革を行う。創業者一族として順風満帆に出世街道歩んできたかに見える福原の人生。しかし、そこには数多くの苦境があった。そんな福原の苦難の道のり、そして趣味を大事にする意外な素顔に4週に渡って迫る。
  • 第1話(3月6日放送)
    「美の一族に生まれた苦悩」

    1931年、資生堂創業者の孫として生まれた福原義春は伯父や父の影響で草花や昆虫をカメラで撮影することに夢中になる。そんな少年時代を過ごした福原は植物学者か遺伝学者を夢見るが、経済学部を出て家を継ぐべきだと言う父の言葉に従い、慶応大学経済学部に入学。しかし経済の勉強に身が入らず、好きな写真に没頭する。福原の写真が科学雑誌の表紙を飾ると、福原のもとに写真の仕事が舞い込み、出版社の編集会議に参加するようになる。福原はそこで会社組織の縦割りが生んだ無駄を目の当たりにする。そして慶応大学卒業後、資生堂に入社。販売の研修で小売店を回っているうちに、ここでも会社組織の無駄や不合理に直面。非効率な仕事のやり方に疑問を感じるようになる。

  • 第2話(3月13日放送)
    「アメリカ赴任 探り当てた経営の真髄」

    慶応大学卒業後、資生堂に入社した福原は半年後に化粧品販売部門の出荷係に配属される。販売会社からの注文金額の計算を1円でも間違えるとやり直すという非効率な仕事に疑問を感じた福原は加算機の導入を進言。大幅な残業時間の削減し、コストカットを実現する。1954年、資生堂は初めてテレビCMを放送。その効果で商品が全国で品切れ状態になる。しかし役員会は資金繰りに苦しんだ過去の経験から増産には踏み切らず、臨機応変な経営ができない上層部に、福原はもどかしさを募らせていく。その後、入社6年目の福原は新商品の販売戦略を担当する部門に異動。福原は若い世代への訴求が後手に回っていた資生堂のイメージを一新させようと奮闘。東レなど異業種10社と日本では前例のない大規模なコラボレーション展開。資生堂の口紅はトップシェアを獲得しキャンペーンを成功に導く。そして1966年、福原はアメリカ子会社立て直しのため、アメリカへ赴任。そこで大きな試練が福原を待っていた。

  • 第3話(3月20日放送)
    「美の本場 フランスに挑戦」

    アメリカ勤務を終えた福原は、企画部部長で後の資生堂の社長にもなる大野良雄に抜擢され、企画部次長に昇進。セレクト・ショップの先駆けとなる資生堂ザ・ギンザをオープンさせるなど、新たな計画を次々に実行に移す。その3年後、福原は商品開発部長として時代の変化を捉えた商品を手掛け、極薄コンパクトなど大ヒット商品を生み出す。そして46歳で海外部長となった福原は美の本場・フランスへの進出を計画。有名クリエイターのセルジュ・ロタンスとタッグを組み、斬新なイメージ戦略でパリ中に資生堂の名を知れ渡らせることに成功する。そしてフランスでの成功の勢いそのままに福原は中国市場へ挑戦。地元の会社と提携し、中国専用の化粧品ブランドを発売するなど、女性が化粧する習慣を中国全土に広めることに尽力する。その後世界進出を着々と推し進めた福原は56歳で副社長に就任。しかし、それからわずか5か月後に思わぬ事態が起こる。

  • 第4話(3月27日放送)
    「経営改革断行!辞任覚悟の決断」

    資生堂の悲願だった世界進出を推し進めた福原は、56歳で副社長に就任するが、そのわずか5か月後に大野社長が急死。福原が急遽、社長に就くことになる。当時、資生堂は増収・増益を続けていたが子細に点検すると販売店などが過剰在庫を抱えていることが判明。このままでは経営悪化を招くと判断した福原は周囲の反対を押し切り販売店の在庫の引き取りと業績の下方修正に踏み切る。株価は急落し、ネガティブな報道が続く中、福原は社長辞任も覚悟して改革を続行。その後、店頭では在庫が減ることで新商品の入荷がしやすくなり、販売は徐々に活性化。資生堂は再び増収・増益を達成する。ところが、改革が順調に進む中、公正取引委員会から独占禁止法違反で排除勧告を受けるという思わぬ事態が発生する。審判に持ち込むという役員会の総意の中、福原は悩んだ末に、排除勧告の受け入れを決断。そしてこの決断は市場経済化が進む中での前向きな努力として大きな評価を受けることになる。