牛尾治朗(ウシオ電機代表取締役会長)

牛尾治朗(ウシオ電機代表取締役会長)
ウシオ電機代表取締役会長の牛尾治朗は電電公社、専売公社、国鉄の民営化など日本経済の大改革に携わり、その後経済同友会の代表幹事、KDDIの初代会長を歴任。そして小泉政権下ではブレーンとして日本の政財界を支えてきた重鎮である。創業者としてウシオ電機を中心に世界に50社、年間売上高1434億円のウシオグループに成長させ、四半世紀に渡り時の総理にアドバイスを求められ頼りにされ続けた牛尾。そこに至るまでには多くの困難と多くの出会いがあった。
  • 第1話(12月12日放送)
    「政界・財界を動かした男」

    1931年、兵庫県・姫路市の裕福な実業家の家に生まれた牛尾治朗。中学3年の時、終戦を迎えた牛尾は屋敷の一部を接収しにきた進駐軍のアメリカ人将校の立ち居振る舞いにカルチャーショックを受ける。その後旧制第三高校を経て東京大学へと進学。外交官になりたかった牛尾だが父に反対され、1953年に東京銀行に就職する。しかし仕事に馴染めず、ストレスで体調を崩した牛尾は2年で休職。この時牛尾は念願だったアメリカ留学を決行し、強い影響を受ける。1958年、28歳の時に父が病で死去したのを機に兄が父から継いでいた牛尾工業に入社するが、牛尾は白熱電球を主力商品として販売する会社の戦略に危機感を抱く。

  • 第2話(12月19日放送)
    「倒産の危機を越え…政財界へ」

    牛尾工業に入社して5年。牛尾は注力をしてきたランプを製造する部門を独立させ、「ウシオ電機」を設立。ウシオ電機は「ハロゲン・ランプ」の開発に日本で初めて成功。世界的ヒットで波に乗り、創業からわずか6年で「東証2部」にスピード上場する。しかし1973年のオイルショックの最中、牛尾は経営判断を誤ることとなる。また同時期、牛尾は青年会議所に参加。同世代の経営者との交流を積極的に始める。そして牛尾が38歳の時に青年会議所の会頭に就任。政財界から文化、芸術まで若手が分野を超え意見を交わす場を次々と作り、幅広い人脈を作り上げていく。そんな牛尾の人脈を頼り、声をかけてきたのが次期総理と言われていた自民党の大平正芳幹事長だった。

  • 第3話(12月26日放送)
    「行政改革 官僚との攻防」

    38歳の時に青年会議所のトップに立った牛尾は全国の経営者と交流を深めていく。そして牛尾は財界の大物、松下幸之助と土光敏夫に大きな影響を受け、ふたりから大きな仕事を頼まれる。松下は牛尾に「松下政経塾の設立を手伝って欲しい」と依頼。後の内閣総理大臣・野田佳彦らの面接を行い、松下政経塾の船出に携わる。一方、鈴木善幸内閣が「増税なき財政再建」を目的に発足させた第二次臨時行政調査会の会長を任されていた土光は「一緒に仕事をして欲しい」と牛尾に声をかける。第二臨調の一員になった牛尾は「行政改革は“総合力”と“変化への即応”に焦点を絞る」という主旨の論文を提出、提案書に採択される。牛尾の意見を取り入れた第二臨調は、国鉄・電電公社・専売公社の民営化を打ち出し、議論に臨むことになる。しかしそこに待っていたのは官僚の激しい抵抗だった。

  • 第4話(1月2日放送)
    「バブル崩壊! ニッポン経済の危機を救え」

    1992年、バブル崩壊の影響で相当な減益が見込まれる中、危機意識を持った牛尾は在庫を処分し不良資産を一掃。同時に思い切った経営のリストラとスリム化を断行する。さらに、時代は円高に推移するという流れを予測し、海外の生産拠点を拡大。海外へ事業を広げることでバブル崩壊の危機を乗り切ることに成功する。そしてバブル崩壊から10年。牛尾は「経済財政諮問会議」に民間有識者として参加。竹中平蔵経済財政担当大臣らとともに不良債権処理に奔走する。不良債権処理を推し進めるにあたり、重要課題となっていたのが当時8,000億円もの最終赤字を計上した「りそな銀行」の再建。日本政府の不良債権処理を世界中が注目する中、小泉政権は約2兆円の公的資金を注入し、実質国有化。牛尾は「りそな銀行」を再建へ導く旗振り役の人選を任され、その判断に日本の命運がかかることになる。

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