渡辺貞夫(ジャズ・ミュージシャン)

渡辺貞夫(ジャズ・ミュージシャン)
80歳になった今も第一線で活躍し続けるジャズミュージシャン渡辺貞夫。代表作の「カリフォルニア・シャワー」は2万枚売れれば大ヒットと言われるジャズの世界で、通算100万枚をセールスするなど、日本のジャズ界をリードしてきた。さらに渡辺の活動はジャズにとどまらず、アフリカやブラジルの音楽も取り入れ、日本に広めてきた。そして長年の功績が認められ、1995年には紫綬褒章、2005年には旭日小綬章を受章した。ジャズとともに歩んできた彼の人生とは?そして今思うこととは?
  • 第1話(11月14日放送)
    「“世界のナベサダ”の原点」

    渡辺貞夫は1933年宇都宮市に5人兄弟の二男として生まれる。実家は小さな電気会社。しかし、父はかつて薩摩琵琶の演奏家で、渡辺は小さいころから音楽に親しんできた。12歳で終戦を迎えると、進駐軍のラジオ放送から流れてくるアメリカの音楽に衝撃を受ける。15歳で中古のクラリネットを買ってもらい、高校生で地元のアマチュアバンドに入団、ステージに立つようになる。そして高校を卒業し、2年間という約束で上京すると、次々とバンドを移り経験を積んでいった。稼いだお金で高価なアルトサックスを購入、一流ミュージシャンが揃う花形バンドにサックスプレーヤーとして参加することになった。ところが、渡辺の演奏のレベルが低いことにメンバーからクレームがきてしまう。

  • 第2話(11月21日放送)
    「運命の出会い…アメリカ挑戦!」

    1953年、20歳になった渡辺貞夫は、出演していた人気ジャズクラブで、トップ・ピアニストだった秋吉敏子と出会う。渡辺はその才能を評価していた秋吉に誘われ、秋吉のバンド「コージー・カルテット」に入り、サックスを任される。厳しい練習とステージの日々の中、音楽に一切の妥協をしない秋吉の姿を目の当たりにした渡辺はさらに貪欲になっていく。そして今度はフルートに挑戦しようと、フルート奏者でクラシック音楽界の重鎮、林リリ子のもとで猛特訓を積む。1956年にはアメリカに留学することになった秋吉の指名で「コージー・カルテット」のリーダーとなった渡辺だが、この頃進駐軍が日本から撤退をはじめ、にぎわっていたジャズクラブも次々と閉鎖、渡辺の仕事も激減していったのだ。

  • 第3話(11月28日放送)
    「挫折からの再挑戦」

    1962年、渡辺貞夫は29歳でジャズを本格的に学ぶため、本場・アメリカに渡り、バークリー音楽院に入学する。教師や留学生たちと即席バンドを結成し、ステージに上がりギャラをもらえるようになる。さらに気鋭のジャズミュージシャン、ゲイリー・マクファーランドのバンドにも入団した渡辺は、アメリカ西海岸のツアーに参加し、その演奏は高く評価された。ところが、異国の地で極限の緊張状態の中での演奏旅行に疲れ果て、渡辺はアメリカで成功するチャンスを捨て帰国してしまう。しかし、日本でも大勢のファンやミュージシャン仲間が渡辺のステージを待っていたのだ。日本にアメリカで触れたブラジル音楽を持ち込み、1967年に発表したアルバム「ジャズ&ボッサ」は2万枚のベストセラーになった。そしてヨーロッパやアメリカの世界的ジャズフェスティバルにも招待されるようになった渡辺は、日本のミュージシャンの実力を世界に示そうと、日本人だけのバンドを結成する。

  • 最終話(12月5日放送)
    「最高の音を探し続けて…」

    1972年、39歳、脂ののりきった渡辺に、京都市交響楽団と共演する話が持ちあがる。オーケストラとの共演は初めての経験。渡辺が選曲したデュボアの「デヴィルティメント」は、旋律が変化に富み、高度な演奏テクニックが必要だった。公演まで7カ月、渡辺はひたすら練習に明け暮れた。そして公演は大成功を収める。1978年には「カリフォルニア・シャワー」を発表。累計販売数100万枚という、日本のジャズ界では空前の大ヒットを記録する。さらに47歳の時には日本人ジャズミュージシャンとして初となる日本武道館での公演に挑戦。3日間の公演は全て満員御礼、計3万人以上の観客を動員した。ミュージシャンとしてまさに絶頂期を迎えた渡辺。ところが、1981年、ニューヨークでのアルバム制作を終え帰国した渡辺は家に帰った途端、ばったりと倒れてしまう。診断はC型肝炎。長期の入院が必要となってしまう。

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