堀場雅夫(堀場製作所 最高顧問)

堀場雅夫(堀場製作所 最高顧問)
京都市に本社を構える「堀場製作所」。60年前に創業した世界的な計測機器メーカーで、社員数5000人、売上高は1000億円を超える。堀場雅夫はその創業者。学生時代に会社を立ち上げ、一代で世界的な企業に育て上げた堀場は、“ベンチャーの神様”と呼ばれるが、その道のりは険しいものだった。本当は科学者になりたかったという堀場の波瀾万丈の人生とは?
そして、88歳となった現在、その情熱を注ぐものとは…?
  • 第1話(7月25日放送)
    「学生ベンチャーから世界シェア8割へ!」

    1924年、京都市に生まれた堀場雅夫は、父は京都帝国大学工学部の教授という裕福な家庭に育つ。しかし、小学校4年生の時、小児リウマチを発症し自宅での療養を余儀なくされる。何とか学校に行けるようになった時に、学校の先生が機関車のラジコン模型を見せてくれた。堀場はその模型に魅了され、科学やものづくりへの関心を高めていく。高校生になるとようやくリウマチも改善し、父と同じ京都帝国大学へ進学した。学科は物理学。原子物理学を学びたかった堀場だったが、太平洋戦争の激化にともない、学徒動員で陸軍の研究所へ派遣される。ようやく終戦を迎え、堀場は再び研究ができると喜んだが、原子核の研究をしてはならないという米軍の意向で、核物理の実験装置は全て破壊されてしまった。しかし、原子核物理の研究者として生きていくという夢をあきらめられない堀場は、自身で「堀場無線研究所」立ち上げる。今で言う学生ベンチャーのさきがけだった。

  • 第2話(8月1日放送)
    「伝説の京都ベンチャー誕生」

    敗戦で米軍に実験装置を全て破壊され、大学での研究ができなくなったものの、「堀場無線研究所」を立ち上げ研究を続けた堀場。結婚し、子どもも生まれるが、研究ばかりで収入がない。そこで、収入を得るために自社製品の開発に乗り出した。蓄電式の電灯、医療用の検査機器を開発し、さらに製品の品質向上のため、高品質のコンデンサーも開発する。それが評判となり、増産のための工場建設を決意する。しかし、何とか融資を取り付けたものの、戦後のインフレにより工場建設費用が当初の計画から3倍かかることになってしまい、頓挫してしまう。コンデンサー開発のためにすでに多くの借金をしていた堀場は、その返済のため、1953年「堀場製作所」を設立し、コンデンサーを作るために開発したpH計の製造、販売を始めた。

  • 第3話(8月8日放送)
    「ベンチャーの神 型破りな経営哲学」

    1953年にたった8人でスタートした堀場製作所は、設立5年で社員50人以上を抱える会社になり、ヒット商品となった水質を測定するpH計をもとに、1963年、肺の機能を測定する医療用分析計を開発した。ところが、問い合わせがきたのは医療機関からではなく、通産省直属の研究所からだった。その分析計を車の排気ガスの測定に使いたいというのだ。目的とは違う使い方に、堀場はあっさり断るのだが、なんと一部の社員が堀場に隠れて排気ガス測定装置の開発を進めていたのだ。しかし小さな会社が作った製品には信用がなく、全く売れない。そこで、日本よりもさらに自動車社会化が進んでいたアメリカに売り込みをかける。すると、アメリカの大手自動車メーカーが正式採用。それをきっかけに、国内メーカーからも問い合わせが殺到することになる。今や排気ガス測定装置は世界シェア8割を誇る。それは社内のベンチャースピリットから生まれたものだった。

  • 最終話(8月15日放送)
    「ベンチャー魂で日本を変えろ」

    20歳で会社を立ち上げ、紆余曲折の末、会社をグローバル企業に育て上げた堀場は、35年前、53歳で突然社長を引退する。第二の人生で堀場が情熱を注いできたのは、中小企業やベンチャー企業の支援だ。まず、京都市と地元の産業界に働きかけ、ベンチャー企業の情報拠点「京都産業情報センター」を設立。さらに、ベンチャー企業に必要な研究設備と、人材教育や資金調達の相談などができる行政機関を合わせた、総合施設「京都リサーチパーク」を整備する。そして88歳になった今でも全国を飛び回り、起業家たちを支援している。

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