はじめに
昭和歌謡を牽引し歌謡曲の黄金時代を築いた偉人たち。古賀政男・古関裕而・なかにし礼・岩谷時子・美空ひばり。この五人の偉人たちが初めて挑戦し、切り拓いた世界にスポットを当て、三週連続に渡り、偉人たちの昭和歌謡における功績と活躍を紐解く。
*古賀政男(明治37年11月18日‐昭和53年7月25日、73歳没)
*古関裕而(明治42年8月11日‐平成元年8月18日、80歳没)
*なかにし礼(昭和13年9月2日‐令和2年12月23日、82歳没)
*岩谷時子(大正5年3月28日 – 平成25年10月25日、97歳没)
*美空ひばり(昭和12年5月29日 – 平成元年6月24日、52歳没)
番組内容
「“歌謡曲の父!”古賀政男、はじめての歌謡曲
“国民的作曲家!”古関裕而、はじめての応援歌」
古賀政男
生涯、5000曲の歌謡曲を紡ぎ、音楽家として初めての国民栄誉賞を受賞。
“歌謡曲の父”と謳われる古賀政男。福岡で生まれ、赤貧の生活のなか、兄を慕って家族で朝鮮半島に渡り、音楽に魅せられた。明治大学に進学後はマンドリン倶楽部でギター奏者として活動するなか西洋の音楽にも出会った。
そして、在学中に作曲活動を始め、定期演奏会で自らの作品を発表。ゲスト出演した「東京行進曲」のヒットで知られる佐藤千夜子に認められ、昭和5年2月 佐藤千夜子の歌唱による「文のかおり」(作詞・作曲 古賀政男)と「娘心も」(作詞・浜田広介)をビクターから発売。これが、古賀政男の流行歌の処女作である。この後「影を慕いて」など数々の名曲を発表。名実ともに昭和歌謡の第一人者となった。
古関裕而
古関裕而は、昭和5年9月、コロムビアの顧問であった作曲家、山田耕筰の推薦でコロムビア専属の作曲家に迎え入れられたがヒット曲が書けず、悶々とした日が続いていた。こうした中、同郷の福島出身の歌手、伊藤久男のいとこで幼馴染だった早稲田大学応援の応援部リーダー、伊藤戊(いとう・しげる)から応援歌の作曲を依頼される。当時、六大学野球で早稲田は、ライバル慶応との早慶戦で連敗。敗因は慶応の応援歌「若き血」に圧倒されるためとされ、対抗するための新たな応援歌を作ることになったのだ。応援部が主催した歌詞募集には約30編の応募があり、西條八十教授により高等師範部3年住治男の「紺碧の空」が選出された。有名な作曲家に依頼した方が良いなどの助言などもあったが、応援部のリーダーは、応援団員を説得し、新人の作曲家古関裕而に依頼することを決める。
こうして早稲田は「紺碧の空」を得て、昭和6年度の早慶戦で慶応に勝利。「紺碧の空」は第6応援歌から第1応援歌へと昇格した。
なお、古関裕而の歌謡曲の初のヒットは、昭和9年の「利根の舟唄」(作詞・高橋掬太郎 歌・松平晃)で、いわば、「紺碧の空」は、自身初のヒット曲とも言える。
この後、応援歌、社歌、校歌など依頼が殺到。名実ともに国民的作曲家となった。
「“マルチ才能!”なかにし礼、はじめての作詩
“女流作詞家の第一人者”岩谷時子、はじめての作品」
なかにし礼
シャンソンの訳詞家から歌謡曲の作詩家に転身。数々のヒット曲で歌謡界に革命を起こしたなかにし礼。 転身のキッカケは、新婚旅行で出かけた伊豆のホテルで偶然出会った石原裕次郎のひと言だった。それは、昭和38年、25歳の時のこと。
裕次郎「歌書けるんだったら日本語の歌を書けよ、俺が歌ってるようなやつを.自信作が出来たら俺んとこ持ってこいよ。必ず日の目見せるから!約束だ!」
しばらくして、なかにしは、初めてオリジナルの詩を書き、メロディーも自らつけ、裕次郎の元に届けた。曲は「涙と雨にぬれて」。
すると、石原プロ所属の歌手、裕圭子が歌いレコード発売されることになった。 裕次郎は、なかにしと最初に出会った時の約束を守ったのだ。
さらに、幸運だったのは、シャンソン喫茶「銀巴里」で顔見知りだった田代美代子がお祝いにマヒナスターズ とカバーしてくれたことだった。当時、田代美代子はムード歌謡のトップコーラスグループのマヒナと一緒に 活動、「愛して愛して愛しちゃったのよ」をヒットさせていた。 2 つのコーラスグループが歌ったことで、なかにし礼のデビュー作、「涙と雨にぬれて」は、総計40万枚の大ヒットとなった。これが、昭和歌謡の革命児の出発点である。
なかにしは後年、「僕を歌謡曲に導いてくれた人は石原裕次郎さん、そのものです」と語っている。
岩谷時子
大学卒業後、宝塚歌劇団の機関誌「歌劇」の編集長を務めていた岩谷時子は、8歳下の劇団員で15歳の越路吹雪と出会う。2人は意気投合し、岩谷は越路の相談相手となる。越路が宝塚歌劇団を退団して歌手なると岩谷も退職しマネージャーになった。
岩谷に転機が訪れたのは昭和27年9月。日劇のシャンソンショー「巴里の唄」に出演予定の二葉あき子が喉を痛めて休演することになり、急遽その代役に越路吹雪が抜擢された。
越路が歌うのは、当時、世界でヒットしていたエディット・ピアフの「Hymne à L'amour(イム ア ラムー(ル))」。指揮を担当する黛敏郎の勧めだった。だが、ステージで原曲のまま歌うわけにはいかず、急遽、マネージャーの岩谷が訳詞することになった。岩谷は黛敏郎に稽古場でピアノを弾いてもらい新たな歌詞を紡いで行った。タイトルは「愛の讃歌」。
♪あなたの燃える手で あたしを抱きしめて ただふたりだけで 生きていたいの
ただ命のかぎり あたしは愛したい 命のかぎりに あなたを愛したい
岩谷の詩は原詞とまったく異なっていたが情熱的な愛の歌として関係者から高く評価され、やがて、越路吹雪の代表曲となった。そして、岩谷もまた、「愛の讃歌」のヒットをキッカケに作詩家としての道を歩き始める。
♪恋の季節/ピンキーとキラーズ ・ ♪恋のバカンス/ザ・ピーナッツ
♪君といつまでも/加山雄三 ・ ♪夜明けのうた/岸洋子
♪いいじゃないの幸せならば/佐良直美 など歌謡史に残る名曲は数多い。
名実ともに女流作詞家の第一人者としての地位を築いた。
「“昭和の歌姫”美空ひばりは挑戦者!
はじめての座長公演!& 日本人初の東京ドーム公演!」
新宿コマ座長公演
昭和39年、ひばりは新宿コマ劇場で、これまで誰もしたことがなかった芝居と歌の二部構成による座長公演を開催。芝居は愛を捨て芸に生きる女性を描いた「おんなの花道」。当時、ひばりは小林旭との結婚生活が破綻。その行くへが取りざたされていた。こうしたこともあり、芝居をひばりの決意宣言と受け止めたファンで、客席は連日超満員。千秋楽の前日、終演後に、ひばりは新宿コマ内で会見を開き、ひばりは小林旭との離婚を発表した。また、歌のステージはヒット曲を中心に聴かせる「歌声はひばりと共に」。この公演の成功で、ひばりは連続23年、新宿コマ公演の記録を樹立。再び黄金期を築きあげた。
さらに、これまでの映画、ステージに加え、劇場の舞台と芸の幅を広げ、舞台女優としての地位も確立した。
東京ドーム公演
昭和62年4月、病に倒れ、失意のなかで入院生活を送る中、ひばりの元に、ある公演の依頼が届いた。それは翌年竣工する全天候型スタジアム、東京ドームのこけら落としのコンサートの依頼であった。かつて経験したことのない闘病。暗闇のどん底でもがき苦しむひばりにとって、希望の光のように感じられた。しかし、いつ治るかも分からない状態にスタッフは反対したが、ひばりは「初めて」「一番」が好きだった。日毎思いが募って行く。「東京ドームでのこけら落しコンサートを復活のキッカケにしたい」。ひばりは公演依頼を快諾した。目標が出来、懸命のリハビリを経て入院から約3か月後に退院。東京ドーム公演に向けて準備を開始。復帰作「みだれ髪」、復帰アルバム「不死鳥」をレコーディング。年末年始はハワイで静養。昭和63年に入ると東京ドームを下見、決意を新たにした。
そして、昭和63年4月11日、5万5000人の観客が見つめる中、ひばりが登場。タイトルは「不死鳥コンサート」。全40曲を熱唱。フィナーレは自ら望んで作った100メートルの花道を歩き、「私はこんなに元気よ」と復活をアピール、ビッグイベントを締めくくった。
だが、ひばりの容態は完治したわけではなかった。その後もコンサート活動を続けたが天皇崩御で元号が変わった平成元年6月24日、52歳の人生に幕を降ろした。
政府は、その功績に対し、女性として初の国民栄誉賞を授与した。