トップにもどる
■バックナンバー
 下記から選択してください
直撃! トップの決断 バックナンバー 司会:長谷川洋三 アシスタント:相沢礼子

■放送日 7月22日

船井電機代表執行役社長 船井 哲良(ふない てつろう)

 長期低迷にあえぐ日本経済の中でも、元気な会社がある。そういった会社にはたいてい、波乱万丈、艱難辛苦を乗り越えてきた改革精神旺盛なトップがいる。
 この番組では、「年功序列」「終身雇用」が崩壊し、かつてない競争社会に身をおく私たちにとって、最高の「教材」である企業トップの生の声を聞き、その半生から激動の時代を力強く生きぬくための方法を学ぶ。司会は近著に「ウェルチが日本を変える」「ゴーンさんの下で働きたいですか」などがある日本経済新聞社編集委員・長谷川洋三。長年の新聞記者経験を生かし、経営者に鋭く迫る。

今日のトップは船井電機社長、船井哲良。 船井電機は1961年に設立された。
設立当時から「高品質の製品を少しでも安く」の精神で家電製品を製造し、輸出を中心に発展を続ける。北米では、DVDプレーヤーなどがトップシェアを誇る。また今夏から、北米での信頼と実績を背景に日本国内で、自社ブランド製品を展開していく。船井電機を一代で築き上げたのが船井哲良である。

1945年、太平洋戦争が終戦を迎える。その時船井はひとつの大志を抱いた。「40歳までに5つの会社の社長になる」この志がその後の船井の人生、そして船井電機を動かしていく。しかし船井はその後、苦難の道を歩いていく。若き日には修行するために超スパルタ教育の会社に入社。下積みの日々を経験する。苦労の末になしえた起業、だがその後も数々の危機的状況が船井を襲う。船井はその危機をいかにして乗り越えてきたのか!?「“これでいい”と思ったら衰退が始まる。だから“永遠の発展を目指す”」と語る船井の下した決断とその原点に迫る!!

1927年に生まれた船井は、少年時代から近所でも評判の腕白坊主。勉強は嫌いだった。しかし、本はよく読んだ。小学校時代は、豊臣秀吉や織田信長などの戦国武将の歴史ものを読みあさった。中学に入ってから熱中したのは、立身出世した人物が書いた本。成功者の人生やその言葉に身震いを覚えた。そして太平洋戦争が終戦した1945年。徳島に疎開していた船井はひとつの大志を胸に秘める。「40歳までに5つの会社の社長になる」船井18歳での決心。
浪人していた船井は大学への進学を止め、大阪にあるミシンの卸問屋に入社する。この卸問屋は、「3日勤めたらどの会社でも勤まる、3ヶ月勤めたら番頭になれる。3年勤めたら独立して商売が出来る」といわれていた超スパルタ教育で有名な会社だった。そこで、船井は荷造りや雑巾がけなどの下働きの作業に明け暮れた。その後、若くして営業や番頭を経験、4年間勤め上げる。

そして1951年に独立、船井電機の前進、船井ミシン商会を立ち上げる。当時24歳だった。
1950年代中ごろ、順調に業績を伸ばしていた船井ミシン商会に転機が訪れる。ミシンの輸出が過剰になり、国が生産調整に乗り出したのだ。 船井ミシン商会は生産割当て枠を他のメーカーに転売する見返りで労せずして多額の収入を受けることになる。このまま続けてもしばらくは、大きな儲けを出すことはわかっていた。しかし、このとき船井は考えていた。「このままでいいのか」ミシン業界の先行きに疑いを持ち始めていたのだ。

船井は新しいビジネスを探すなかで、トランジスターラジオに目をつける。まだ、大手メーカーが輸出を始めて間もない頃。持ち前の行動力で材料を調達することから始め、製造工程を作り上げ、輸出できる体制を整えていった。そして1959年船井軽機工業に社名変更。トランジスターラジオの製造、輸出を始める。1961年にはラジオ部門を独立させ船井電機を設立。その後トランジスターラジオに加え、テープレコーダーなどの製造・輸出で着実に成長を遂げていく。しかし、1971年不測の事態が船井を襲う。ニクソンショックである。それまで360円だったドルが変動相場制に切り替えられ、急激な円高になっていったのだ。輸出を専門に行っていた船井電機は、円高の影響をもろに受け、成長にストップが掛かる。

さらに、事業を拡大するため、日本各地に作った子会社で労働争議が激化。生産体制に暗雲が立ち込めた。船井は最大の危機に立たされた。「どうすればこの苦境を打破できるのか」そして、ひとつの決断を下す。その決断は、船井電機を再生させるだけでなく、 社内の意識改革を起こした画期的なものだった。

直撃! トップの決断