今日のトップは神鋼商事社長、森脇亜人。 神鋼商事は1946年、神戸製鋼の販売部門を担うメーカー商社として設立された。以来、鉄鋼を中心に発展を続け、今では自動車部品やハードディスクに使われるディスク基板、液晶表示パネルに使われるターゲット材など機械、情報分野にいたる多様な工業製品を販売している。2004年から社長として神鋼商事を率いているのが森脇である。森脇は社員たちにいう。「メーカー商社の甘えを捨てて、たくましく生きろ」。 この言葉の裏には、神戸製鋼で育った森脇が乗り越えたいくつもの窮地があった。1990年代にはバブルが崩壊。追い討ちをかけるように阪神大震災が起こる。本社のある神戸が大打撃を受け、神戸製鋼も大きな痛手を受ける。神戸製鋼グループ全体に再編が迫られていた。そして1990年代半ば、森脇は建設機械事業の建て直しをまかされる。この事業は赤字続きで撤退も考えられた。
しかし森脇は、その危機を自らの決断で打開する。
“真摯で逃げない”が身上と語る森脇が下した決断とその原点に迫る!!
森脇は1943年、東京で3人兄弟の3男として生まれる。父親は遺伝子研究の権威で、都立大教授や国立遺伝学研究所所長を務める傍ら、皇室の家庭教師も務めていた。厳格な父の元で、厳しく育てられた。親の薦めで小学校から中学まで学芸大学付属に通った。学者の血を引き継いだ、勉強が出来る2人の兄を尻目に、森脇はマイペースで変わった子供と言われた。学歴を重んじる校風がなじめず、勉強はあまり好きでなかった。高校は、自ら選んで、当時自由でバンカラな高校と評判だった都立大付属高校に進学する。サッカーに没頭すると同時に、生徒会長を務め、チームワークの大切さとリーダーシップを学ぶ。1963年には慶応義塾大学経済学部に入学。経済の基本をここで学ぶ。そして1967年、神戸製鋼に入社。その理由は、国の基幹産業に行きたかったこと、そして親元から自立し、東京を離れたかったからだった。 神戸製鋼に入社した森脇は、鉄鋼部門と人事部門を行き来する。人事部では、係長、課長、部長と3つのポストを述べ14年に渡り経験する。森脇はいう。「人事は人の人生の節目を決めて掛かるような仕事。いつも真剣勝負」人事の仕事から“逃げない”姿勢を学んでいく。 1994年森脇は機械事業本部に配属される。担当は建設機械。この部門は神戸製鋼のほかに2つの会社が合同で運営し、共同で人も金も出すという形態をとっていた。当時、売り上げは業界第4位、業績を上げることが出来ず赤字が続いていた。建設機械部門は大きな岐路に立たされていたのだ。森脇は、感じていた。“3つの会社が集まっても体質も給与も文化も違うこれではうまくいかない“建設機械から撤退するか、それとも大手と提携するか。 1998年経営会議の席で、森脇は当時の社長からひとつの指令を受ける。「建機部門を1年で独立させ1つの会社にしてみろ」困難な指令だった。森脇は考える。「皆が納得する独立にしなければ、うまくいかない」。神戸製鋼の中には独立を不安に思う社員も少なくない。なにより3つの会社が集まってできていた部門を、ひとつにするのは簡単ではない。 皆を納得させるために、森脇自ら神戸製鋼人生をかけた大きな決断を下す。 果たして森脇がそのとき下した決断とは?! |