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直撃! トップの決断 バックナンバー 司会:長谷川洋三 アシスタント:相沢礼子

■放送日 5月27日

昭和電工代表取締役会長  大橋光夫(おおはしみつお)

 長期低迷にあえぐ日本経済の中でも、元気な会社がある。そういった会社にはたいてい、波乱万丈、艱難辛苦を乗り越えてきた改革精神旺盛なトップがいる。
  この番組では、「年功序列」「終身雇用」が崩壊し、かつてない競争社会に身をおく私たちにとって、最高の「教材」である企業トップの生の声を聞き、その半生から激動の時代を力強く生きぬくための方法を学ぶ。司会は近著に「ウェルチが日本を変える」「ゴーンさんの下で働きたいですか」などがある日本経済新聞社編集委員・長谷川洋三。長年の新聞記者経験を生かし、経営者に鋭く迫る。

  今日のトップは昭和電工会長、大橋光夫。
  昭和電工は1939年に設立。以来、時代を切り開く技術でさまざまな製品を生み出してきた。その分野は石油化学やアルミニウム、さらにはエレクトロニクスに至るまで多岐に渡たる。製品としてはハードディスク、アルミ自動車部品など、「個性派化学」を標榜し、独自の技術開発で注目される。 昭和電工の会長を勤めるのが大橋光夫である。
  大橋の父は、労働大臣、運輸大臣など政府の要職を歴任した衆議院議員の大橋武夫。さらに祖父は昭和の初期に総理大臣だった浜口雄幸。政治家の家系で育った男の選んだ道は経済の世界。しかし、その道は平坦ではなかった。入社以来子会社を転々とする日々。さらには、20年に亘って関わってきたアルミの精錬事業が、オイルショックで撤退。そして、バブル末期に取締役に就任し、不況に陥る中で社長へと昇格。危機的状況から会社を再建する立場に立たされた。さまざまな苦境を大橋はどう乗り越えてきたのか?
  「会社は遊園地ではない。戦場だ。当社の財産は危機感のみ」と語る大橋の原点と決断に迫る。

 大橋は1936年、東京で生まれる。父親は労働大臣、運輸大臣等の要職を歴任した大橋武夫、祖父は浜口雄幸元首相。厳格な父の背中から「信念と正義感」を学んでいく。兄は後に東京大学を首席で卒業後、大蔵省に入省。優等生であったこの兄に、大橋はコンプレックスを持って育っていく。高校時代に没頭したのは卓球。入部の理由は一年上の部員が零で、すぐに試合に出られると考えたから。2年生になるとキャプテンをまかされ、人をまとめていく、リーダーシップに自信を付けていく。1955年慶応大学経済学部に入学。夏は登山、冬は赤倉のホテルに泊まりこみ、スキーに明け暮れる。姉妹がいなかったので、スキー場に来る女性が新鮮でもあった。
  大学を卒業後、大橋がまず就職したのは、当時の三井銀行だったが、「金融の仕事よりモノ作りのほうが性分に合う」と、3年足らずで昭和電工への転職を決意する。昭和電工に入社後は、義理の父親である富士銀行元頭取岩佐凱実(よしざね)氏よりビジネスの世界を勉強することになる。
昭和電工に入社した翌年の1962年、大橋はアメリカに派遣される。アルミニウム事業の拡大を図るため、カイザーアルミとの合弁の交渉を任されたのだ。このとき、アメリカ式の合理的なビジネスを学ぶ。1964年には、昭和電工とカイザーアルミ、そして旧八幡製鉄の合弁会社「スカイアルミニウム」が設立される。この会社は3社が3分の1づつ均等に出資するというものだった。この会社に配属された大橋は思う。「リーダーシップが欠如している。」いかなる意思決定にも3社の合意が必要となり、調整は困難を極めていた。
  その後、大橋は昭和電工に復帰。石油化学部門を経て、1988年に総合企画部長となる。 ここで大橋は、各部門から提案された案件を、社長のブレーンとして意見をぶつける立場になる。そして1993年に、常務取締役に就任。石油化学部門の陣頭指揮を任される。しかし、バブル崩壊後の平成不況の中、当時石油化学の主要事業であった合成樹脂は、赤字に陥っていた。合成樹脂は大きく分けてポリエチレン、ポリプロピレンなど5種類。その中でも特に、他社との合弁事業だったポリスチレンは規模も小さな割には、大きな赤字を抱えていた。大橋はこの赤字部門を存続させるべきか、決断を迫られた。
  しかし「化学メーカーは全ての樹脂をそろえて一人前」と言われていた時代。ポリスチレンだけを撤退させてしまうことは、業界の常識では考えられないことだった。社内には撤退に反対する声も少なくない。そこで、大橋は決断する。それは、その後の樹脂業界再編に先鞭をつける大きな決断だった。
  果たして大橋が下したその決断とは?!

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