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直撃! トップの決断 バックナンバー 司会:長谷川洋三 アシスタント:相沢礼子

■放送日 4月15日

石川島播磨重工業代表取締役社長 伊藤源嗣(いとう・もとつぐ)

長期低迷にあえぐ日本経済の中でも、元気な会社がある。そういった会社にはたいてい、波乱万丈、艱難辛苦を乗り越えてきた改革精神旺盛なトップがいる。
この番組では、「年功序列」「終身雇用」が崩壊し、かつてない競争社会に身をおく私たちにとって、最高の「教材」である企業トップの生の声を聞き、その半生から激動の時代を力強く生きぬくための方法を学ぶ。司会は近著に「ウェルチが日本を変える」「ゴーンさんの下で働きたいですか」などがある日本経済新聞社編集委員・長谷川洋三。長年の新聞記者経験を生かし、経営者に鋭く迫る。

  今日のトップは石川島播磨重工業社長、伊藤源嗣。
  石川島播磨重工業は創業1853年、150年以上の歴史を持つ大手総合エンジニアリング会社。明治時代、日本経済の礎を作った渋沢栄一、昭和の名経営者・土光敏夫など経営陣には数々の人材が名を連ねる名門企業である。プラント、船舶、ジェットエンジン、そして宇宙ステーションと、陸・海・空から宇宙まであらゆる分野で最先端の技術力を発揮する。近年は航空エンジン事業が好調。ここ数年の赤字から脱却を果たし黒字基調を確実なものにした。名門復活の狼煙を上げる。
2000年、過去最悪の赤字を出した翌年、伊藤は復活を託され社長に就任。伊藤は言う。「考えながら走れ」。経営スピードを速め、さらなる改革を進めていく。入社後、一貫して航空エンジンの開発に携わってきた。小さかった航空エンジン部門を会社の主力事業まで押し上げたその手腕とは。
野武士集団、IHIの静かなる統領、伊藤源嗣の経営哲学と原点に迫る!1936年、伊藤は東京に生まれる。小学1年の時に祖母の看病で静岡に移った。子供の頃伊藤は体が弱く、5年生までは学年の3分の1を欠席するほどだった。そんな病弱だった伊藤の慰めは読書。図書館の本をほとんど読破する程の本の虫だった。
高校は25キロ先の公立へ越境入学。伊藤は毎日天竜川を越えて学校までの距離を自転車で通った。そのおかげか、体も丈夫になり以来ほとんど病気をすることがなくなった。大学進学では最初東大の文化T類を考えていた。しかし、友人の「確かに理Tは無理だろうな」という発言に腹を立て一念発起。東京大学理科T類を受験する。そして見事合格を決めてしまった。
  就職の際は「これから出てくる新しい分野をやりたい」と当時航空機エンジンに力を入れていた石川島重工業に入社。入社当初、ジェットエンジンはまだ小さな部門だったが、伊藤は航空エンジン開発へまい進して行くのだった。1983年、伊藤は、日米欧5ヵ国共同の航空機エンジン開発プロジェクトに日本チームの責任者として参加した。「X2500」、民間用ジェットエンジンの開発だった。当初、プロジェクトの進行は難航を極めた。エンジンの実験は失敗を繰り返し設計変更の負担増で不満が噴出した。そんな中、調整役を果たしたのが伊藤である。伊藤は意見の違う相手の話を徹底的に聞き相手を理解した上で接点を探った。1989年、出来上がったエンジンはエアバスA320(えー・さんびゃくにじゅう)に搭載され大空を羽ばたく。各国の技術の集大成だった。航空エンジンはその後会社の主力事業になっていく。
1999年、業界に一つのうわさが流れる。ゴーン革命の最中、日産が宇宙航空事業部を売却するというのだ。伊藤はこれに動かされる。宇宙事業は航空機よりもさらに高度な先端技術。買収すれば100年先までの技術を買うことになる。しかし、当時は平成不況の真っ只中、会社の業績は決して良くはなく資金の調達も難航が予想された。迷っていると、競合他社が買収に動いているという情報が伊藤の耳に入る。考えている暇はない。伊藤はここで決断をする。
  果たして伊藤の下した決断とは!?

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