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直撃! トップの決断 バックナンバー 司会:長谷川洋三 アシスタント:相沢礼子

■放送日 12月25日

日揮株式会社 代表取締役会長兼CEO 重久 吉弘

長期低迷にあえぐ日本経済の中でも、元気な会社がある。そういった会社にはたいてい、波乱万丈、艱難辛苦を乗り越えてきた改革精神旺盛なトップがいる。
この番組では、「年功序列」「終身雇用」が崩壊し、かつてない競争社会に身をおく私たちにとって、最高の「教材」である企業トップの生の声を聞き、その半生から激動の時代を力強く生きぬくための方法を学ぶ。司会は近著に「ウェルチが日本を変える」「ゴーンさんの下で働きたいですか」などがある日本経済新聞社編集委員・長谷川洋三。長年の新聞記者経験を生かし、経営者に鋭く迫る。

今日のトップは日揮株式会社 代表取締役会長兼CEO 重久 吉弘(しげひさ・よしひろ)72歳。
日揮は1928年、日本初のエンジニアリング会社として誕生。
LNG・石油精製・石油化学プラントを作り続け、世界70ヶ国、2万件にもおよぶプロジェクトを成し遂げてきた。
今では売上げの70%以上を海外が占める。
今期は記録的な受注をあげ、業績も絶好調。世界のトップコントラクターのひとつであり、業界のリーディングカンパニーだ。
重久は1996年、社長に、2002年に会長兼CEOに就任。
重久は言う。「マルチ・ナショナル・マインドを持て」
日本人の気持ちを失わずに国際人になれというのだ。
そんな重久は日揮、国際化の先鞭をつけ日本のプラント輸出の牽引役として
常に先頭を走ってきた。
世界を股にかけるエンジニアリング業界の顔。重久吉弘の経営哲学と原点に迫る。

1933年(昭和8年)、重久は宮崎県に5人兄弟の末っ子として生まれる。
幼い時から英語に興味のあった重久は、中学から町の英語教室で学び始める。
毎日、学校終わりに教室にやってくる重久をアメリカから来た日系二世の先生はいつも笑顔で迎えてくれた。
戦後間もなく、まだみなが暗い顔をしていた頃、その笑顔は重久に鮮烈な印象を残す。
この出会いが、その後の海外への思いをさらにかき立てたのだった。
1953年(昭和28年)、慶応義塾大学文学部英文科に入学。
ここで国際派と知られた池田潔教授に自由と規律、そしてSense ofbalance、平衡感覚の大切さを学ぶ。
この教えは後の重久のビジネスマン人生に大きな影響を与えた。
また、重久は学校の授業だけでは飽き足らず銀座の英語学校でGIやオフィサーに英語を学ぶのだった。
1961年(昭和36年)、海外に出たいと思っていた重久は日揮に就職。
入社には試験官との英語面接もあったが重久の英語力はすでにどの試験官より上だった。
入社後は輸出入課に配属され、海外進出にまい進していくことになる。
1965年、重久はソウルにできた初の海外事務所に所長として派遣される。
当初、韓国ではまだ反日感情が強かったが、重久の熱心な営業に感心した韓国の人々はよく話を聞いてくれた。
重久の営業にかける意気込みは凄まじく、日本まで招待して日揮が建設した出光興産徳山製油所を案内、技術力の優秀性を語った。
この熱意が相手にも伝わり、最後には日揮との契約が決まったのだった。
大韓石油公社向け蔚山製油所プロジェクト。
韓国からの受注、第一号だった。
その後、日揮は世界各地で次々に大型プロジェクトを受注。急成長を遂げていく。
だが、1985年、プラザ合意に始まる円高で日揮の競争力は著しく落ちる。
この時、取締役となっていた重久は長年の思いを実行に移す。
「日揮を真のグローバル企業にしなければ勝てない」フィリピンに子会社を設立し、さらにイギリスの会社に資本参加するなど、グローバル化を強力に推進する。
1996年、重久は社長に就任。その翌年、日揮を未曾有の危機が襲う。
タイバーツ暴落に端を発したアジア通貨危機が起こったのだ。アジア市場に資金をつぎこんでいた企業の多くは撤退を余儀なくされた。東南アジアの顧客企業も次々と経営危機に陥り、プロジェクトの中断や代金の未払いが相次ぎ、倒産する企業も出てくる。
ここで重久は決断を迫られる。日揮も撤退すべきか?しかし撤退すれば、
相手国に大きな打撃を与えることになる。
悩んだ末に重久は決断を下す。果たして重久の下した決断とは!?
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