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直撃! トップの決断 バックナンバー 司会:長谷川洋三 アシスタント:相沢礼子

■放送日 9月18日

日立建機株式会社 会長 瀬口 龍一

長期低迷にあえぐ日本経済の中でも、元気な会社がある。そういった会社にはたいてい、波乱万丈、艱難辛苦を乗り越えてきた改革精神旺盛なトップがいる。
この番組では、「年功序列」「終身雇用」が崩壊し、かつてない競争社会に身をおく私たちにとって、最高の「教材」である企業トップの生の声を聞き、その半生から激動の時代を力強く生きぬくための方法を学ぶ。司会は近著に「ウェルチが日本を変える」「ゴーンさんの下で働きたいですか」などがある日本経済新聞社編集委員・長谷川洋三。長年の新聞記者経験を生かし、経営者に鋭く迫る。

今日のトップは日立建機株式会社 会長 瀬口 龍一(せぐち・りゅういち)71歳

油圧ショベルを中心に建設機械で国内2位の日立建機。
「技術の日立」の名にふさわしく、業界でも先駆けて建設機械のIT化も実現。
さらに、アジア、アメリカ、ヨーロッパ各地に拠点を持ち、売上の7割を海外が占めるグローバル企業だ。
近年は、その海外での売上が絶好調。3年連続の最高益更新を目指すエクセレント・カンパニーである。
瀬口は1956年、東大法学部から日立製作所に入社。1970年、日立建機設立に伴い会社を移る。若い頃からバリュー・エンジニアリングを提唱。
また、グローバル化も推し進め拠点作りに世界中を駆け回った。
1997年、社長に就任。2001年には大リストラを敢行、V字回復を成し遂げた。
2003年に会長に就任。常に改革を叫び、社内に声を響き渡らせる。
そんな瀬口についたあだ名はライオン丸。近年、飛躍著しい日立建機、瀬口龍一の改革と挑戦の原点に迫る!
直撃トップの決断!


1933年(昭和8年)、瀬口龍一は熊本に生まれる。
子供の頃は新聞社に勤める父親の転勤で、各地を転々とした。
1952年(昭和27年)、東京大学法学部に入学。
「役人よりも実業家だ」と、卒業後は日立製作所に入社。ビジネスマンとしての一歩を踏み出すことになる。
ここに一冊の本がある。「バリュー・アナリシス入門」 瀬口を語る上でこの「バリュー・アナリシス」は欠かせないキーワードだ。
バリュー・アナリシスとは今でいうバリュー・エンジニアリングである。アメリカのゼネラル・エレクトリック社が考案したもので、ものの本質を見直しコストの削減を目指すというコスト改革の手法だ。
1962年、瀬口は価値分析係主任として、この「バリュー・アナリシス」を工場に導入せよという命を受ける。
しかし、今では当たり前の「コストダウンの手法」も、当時の現場からは反発がおこる。
瀬口はこれに対し、成果を目に見える形で提示した。実際に40%コストダウンしたものをみなの前で発表したのだ。
その発表の場にはなんと当時の日立製作所会長までもがいた。
発表は成功し会長をも驚かせる。その後、日立全社でバリュー・アナリシスが推奨されるようになる。
その翌年、1963年。瀬口は「バリュー・アナリシス入門」を書くことになる。
1970年(昭和45年)、日立製作所は日立建機を分社化。ここで瀬口も会社を移る。
しかし、日立建機は設立当初から大赤字で、早急の改革が必要となっていた。
そこで、瀬口が急ごしらえの部長ポストに任命され黒字化を託される。36歳の時だった。
この危機に、瀬口は選抜メンバーを集めて2週間泊り込み、徹底的な話し合いをする。そして、議論の末、次のことを決める。

●860人の人員削減
●足立工場の閉鎖・土浦工場への統合
●ブルドーザー・エンジン部門からの撤退と、油圧ショベルへの集中。

大リストラの断行だった。
反発さえ起きない切迫した状況で、リストラは速やかに行われた。
しかし、瀬口はこのときの心労で、30代にも係わらず、すっかり髪が白くなってしまった。
1974年、瀬口は海外本部営業部長に就任。しかし、当時営業は国内が中心で、「輸出部」は「異質部」と揶揄されていた。さらに瀬口自身、英語も飛行機も大嫌い。この人事に暗澹たる思いを抱く。
当時、日立建機はカナダとオランダに輸出拠点を持っていたが、発展途上国へシフトしようと計画していた。
そして、初の海外出張で瀬口は命じられる。「カナダとオランダ、2つの会社をつぶしてこい」。
瀬口は現地に飛んだ。現地で入念に調査を行う。
その結果ある決断を胸にする。果たして、瀬口の決断とは!?

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