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直撃! トップの決断 バックナンバー 司会:長谷川洋三 アシスタント:栗原由佳

■放送日 6月12日

アステラス製薬株式会社代表取締役会長 青木 初夫

長期低迷にあえぐ日本経済の中でも、元気な会社がある。そういった会社にはたいてい、波乱万丈、艱難辛苦を乗り越えてきた改革精神旺盛なトップがいる。
この番組では、「年功序列」「終身雇用」が崩壊し、かつてない競争社会に身をおく私たちにとって、最高の「教材」である企業トップの生の声を聞き、その半生から激動の時代を力強く生きぬくための方法を学ぶ。司会は近著に「ウェルチが日本を変える」「ゴーンさんの下で働きたいですか」などがある日本経済新聞社編集委員・長谷川洋三。長年の新聞記者経験を生かし、経営者に鋭く迫る。

アステラス製薬株式会社代表取締役会長 青木 初夫(あおき はつお)

今年4月に藤沢薬品と山之内製薬が合併して誕生したアステラス製薬。
売上高約9000億円となり再編の進む国内製薬業界で一躍2位に躍り出た。
新会社のトップとなった青木は今回の統合を「攻め」の合併だと語る。
今、青木の目は世界に向けられている。
アステラスは世界市場ではまだ16位。
新薬の研究開発に年間1400億円を計上し、世界のベストテン入りを狙いさらなる攻勢をかけていく。

生き物が好きで東京大学農学部に進学。
入社した藤沢薬品ではひたすら新薬の研究に挑み、いまや移植手術には不可欠となった免疫抑制剤「プログラフ」の開発にも携わる。
しかし、研究者として邁進していた青木に転機が訪れる。
藤沢薬品が買収したアメリカの製薬会社が破綻寸前の危機に陥り、再建のため青木に白羽の矢が立てられる。研究者から経営者への転身。
その時、青木は何を考えどう行動したのか?合併でさらなる飛躍を図るアステラス製薬会長、青木初夫の原点と決断に迫る!

1936年(昭和11年)、青木初夫は群馬県で生まれる。
女4人に男2人、6人兄弟の下から2番目の青木はのんびりとした性格に育つ。
父親は軍人で外地へ赴任していることが多かった。
終戦後は日本に戻り伊香保で旅館を始めようとする。
しかし、そこに不幸が訪れた。突然の台風による水害で家は流され、青木は父親と姉一人を亡くしたのだ。
2人の死は中学生だった青木の心に大きな影を落とした。
その後は、一人立ちしていた兄と姉に生活を支えられ青木は成長していくことになる。

1956年、生き物が好きだった青木は東大農学部へ進学。
のんびり屋の青木はごく平凡な学生生活を送っていた。
しかし、1960年(昭和35年)、先輩の紹介で就職した藤沢薬品工業で青木は大きく変わる。
そこで、青木は医薬品開発に燃える研究員達の情熱を目の当たりにする。
当時、日本は海外で開発された医薬品をライセンス契約で作るだけだった。
しかし、一方で日本が独自の医薬品を開発し始めた黎明期で、その研究所では「自前の薬をつくりたい。自分たちの薬を普及させたい」という活気にあふれていた。
それまで目的意識もなくすごしていた青木だが、この熱気に打たれ医薬品の研究開発に目覚める。
「自分も患者の役に立つような薬をつくりたい」1964年には藤沢薬品にも中央研究所ができ、本格的な研究開発が開始される。
青木はそこで研究員として新薬開発に邁進していく。

1993年、青木は研究開発総本部長として新薬の研究開発にまい進していた。
そんな青木に大きな転機が訪れる。
藤沢薬品は1990年(平成2年)にアメリカにFUJISAWA USAを設立。
海外展開の拠点としてアメリカの製薬会社を買収したのだ。
しかし、ここで問題が起こった。
買収した会社の製品の中に、承認申請データの不備があることが発覚したのだ。
アメリカ食品医薬品局(FDA)からは製品の回収や承認取り下げが命じられる。
結果、FUJISAWA USAは巨額の赤字を出すことになる。
そこへ当時研究開発の中枢にいた青木に白羽の矢が立つ。
「現地のトップとしてFUJISAWA USAを再建せよ」しかし、それまで青木は研究畑一筋で経営に携わったことなどない。しかも事情の分からない海外への赴任。
青木は考えた。「どうすればいいのか」考えた末に、青木は提案する。
「社内の精鋭を選んでレスキューチームを編成し自分と一緒に連れて行きたい」
当時社長の藤山はそれを受け入れた。
その提案には研究者から経営者として転身しなければならない青木の強い決断がこめられていた。
果たして青木の決断とは!?
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