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直撃! トップの決断 バックナンバー 司会:長谷川洋三 アシスタント:栗原由佳
■放送日 5月1日
株式会社大林組 代表取締役社長 向笠愼二

長期低迷にあえぐ日本経済の中でも、元気な会社がある。そういった会社にはたいてい、波乱万丈、艱難辛苦を乗り越えてきた改革精神旺盛なトップがいる。
この番組では、「年功序列」「終身雇用」が崩壊し、かつてない競争社会に身をおく私たちにとって、最高の「教材」である企業トップの生の声を聞き、その半生から激動の時代を力強く生きぬくための方法を学ぶ。司会は近著に「ウェルチが日本を変える」「ゴーンさんの下で働きたいですか」などがある日本経済新聞社編集委員・長谷川洋三。長年の新聞記者経験を生かし、経営者に鋭く迫る。

今回のトップは株式会社大林組 取締役社長 向笠愼二(ムカサシンジ)。
大林組は1892年(明治25年)、初代社長の大林芳五郎により土木建築請負業の「大林店」として創設された。以来、国内外の重要建築を数多く手掛け、建設大手の一角を担ってきた。
最近では、丸の内の「丸ビル」、汐留・シオサイトの「電通ビル」、六本木ヒルズの「森タワー」など、再開発地区のランドマークを次々に建設し注目を集めている。
向笠が社長に就任したのは1997年。
先の見えない平成不況の真只中。
大林組も業績不振にあえいでいた。
社長就任時の言葉は、

「難しい時期に就任したことは間違いないが、これ以上悪くならないという気楽さもある」

豪放さをのぞかせつつも、持ち前のマネジメント力で優良企業構想に着手し、社員の意識改革を断行。
どん底からの脱出を成し遂げた。そんな向笠がビジネスマンとして自信を深めたのが課長時代。
会社を襲った危機を自らの決断で乗り切ったことにあった。
そして若き日、東大ボート部時代の原体験が向笠を支えていた。 

「皆が心を合わせてやる気になったら、出来ない事はない」

と言い切る向笠愼二の原点と決断に迫る!

1933年、向笠は福岡県に医者の息子として生まれる。
高校時代、東京に住んでいた叔父の勧めで都立新宿高校に編入。
100人受験して4人しか合格しない難関を突破しての編入だった。
1953年、東京大学工学部に入学。
東大駒場寮に憧れていた向笠は入寮を希望するが親に一定以上の収入があると入れない。
医者の息子は入寮できなかった。
しかし、そこで漕艇部(ボート部)に誘われる。
漕艇部は駒場寮に部屋を持っていた。
入部すれば駒場寮で生活できるというのだ。
まさに渡りに船。
向笠は駒場寮で生活をしながら、青春をボートに賭けることとなる。

ところが、向笠の代は歴史ある東大漕艇部にあって、史上最弱といわれていた。
伝統の京大戦でも勝ったことはなかった。
そして、現役最後の京大戦。
スタートして間もなく水を開けられる。
ボート競技は水を開けられるとほぼ勝負あり。
その時、誰もが京大の勝ちを確信した。
だが、向笠らは諦めなかった。
じりじりと差を詰めていく。

「どうしても勝ちたい」

クルーの気持ちが一つになったのを感じた。
そして遂には京大を追い上げ初勝利を収めたのだ。
向笠らは試合を前に一ヶ月の合宿を行った。
一ヶ月間のハードな合宿で、部員達の気持ちが一つになっていたのだ。
向笠はこの時、皆が心を合わせてやる気になったら、何とかなるものだ、と深く心に刻み込んだのである。

大林組に入社した向笠は、1973年には工務部工務課長を務めていた。
工務部は建築工事の段取りを整える、現場の後方支援的セクションで、現場に浮上する問題を解決し、予定通り工期に間に合わせるのが仕事である。
当時、GNPで10%以上の成長を続けた戦後最長の「いざなぎ景気」は終焉したものの、建設業界は活況を呈していた。
そこに、第一次オイルショックが起こる。
建設ラッシュが引き起こす慢性的な人手不足とあいまって、深刻な資材不足に陥ったのだ。
それぞれ現場の工期が遅れがちになっていったが、その中で著しく遅れている現場があった。
工期は8ヶ月後に迫っていたが、半年以上作業が遅れていたのである。
向笠は何度も実況検分に出かけたが、生半可な取り組みでは絶望的と判断した。
そしてある決断を胸にする。
現場から帰った向笠は部長に呼ばれた。

「あの現場どうしたらいい?」

向笠は現場での決断を即答した。

果たして、向笠が下した決断とは!?

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