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直撃! トップの決断 バックナンバー 司会:長谷川洋三 アシスタント:栗原由佳
■放送日 4月3日
電源開発株式会社 中垣喜彦

長期低迷にあえぐ日本経済の中でも、元気な会社がある。そういった会社にはたいてい、波乱万丈、艱難辛苦を乗り越えてきた改革精神旺盛なトップがいる。
この番組では、「年功序列」「終身雇用」が崩壊し、かつてない競争社会に身をおく私たちにとって、最高の「教材」である企業トップの生の声を聞き、その半生から激動の時代を力強く生きぬくための方法を学ぶ。司会は近著に「ウェルチが日本を変える」「ゴーンさんの下で働きたいですか」などがある日本経済新聞社編集委員・長谷川洋三。長年の新聞記者経験を生かし、経営者に鋭く迫る。

今回のトップはJパワー(電源開発株式会社) 中垣喜彦(ナカガキヨシヒコ)。
Jパワーは1952年(昭和27)国内の電力供給力の増加を目的に、特殊法人、電源開発株式会社として発足。
以来、半世紀に亘り電力会社への電力供給を中心に、我が国の電気事業に大きく貢献。
さらに、昨年10月東証一部に上場して、完全民営化を果たし、新たな歴史を歩み始めた。

中垣喜彦は2001年(平成13)Jパワー初のプロパー社長に就任した。
日本が初めて経験する電力自由化にあって、過去のしがらみにとらわれることなく、ビジネスの拡大を目指す中垣はこう語る。

「国策的会社の体質のままでは、自由市場で勝つことはできない。」

変革のうねりの中で冷静に将来を見据えるその眼差しは過去のビジネス体験で培われた。

1970年代、狂乱物価を招いたオイルショック。
発電エネルギーの大半を石油に依存していた電力業界は抜き差しならぬピンチに陥る。
この時、40代だった中垣は石油に代わる新たなエネルギー源の獲得に奔走する。
果たして、中垣はこの危機をどう、乗り切ったのか?
さらにJパワー民営化の舞台裏に迫る。
政府も巻き込んだ中垣の発言とは。
民営化でその手腕に注目が集まる中垣喜彦のビジネスマン人生に迫る!


1974年(昭和49)、中垣は財務課長代理となる。
時あたかも中東戦争に端を発した第一次オイルショックのまっただ中。
原油価格の高騰のあおりを受け、電力会社は軒並み、減益に陥り、日本中に狂乱物価と呼ばれたハイパーインフレの嵐が吹き荒れていた。
国策会社として、電力会社に電気を卸していた電源開発は政府の方針で財投貸し付けが縮小。
財務を担当していた中垣は大蔵省に日参し、増額を迫るが色よい返事は無し。
やむなく、電源開発は初めて市中銀行からの融資を受けた。
さらに1979年(昭和54)、第二次オイルショックが巻き起こる。
発電エネルギーを石油から他にシフトする事が、電力業界の緊急課題となった。
この年、中垣は長崎県松島に配属される。
そのミッションは、
「脱石油。石油に頼らない新しい発電所を建設せよ。」

中垣の双肩に電力業界の未来がずしりとのしかかっていた。


1990年(平成2年)、日本列島を猛暑が襲う。
これにより、それまで頭打ちだった電力需要が大きく伸びる。
各家庭にクーラーが行き渡っていた状況がその背景にはあった。
電力会社は需要が毎年、伸びていくと考え、電源開発に電力の開発促進を呼びかけた。
中垣は開発計画部長として、新しい発電所の建設など、巨大プロジェクトの中枢を担った。
電力会社 各社は、

「発電所を早く立ち上げて欲しい。」

と、電源開発に大きな期待を寄せ、最大限の協力の姿勢を示した。
しかし、電力会社の期待とは裏腹に電力需要はその後、横ばい状態。
さらに長引く平成不況で、消費はいっこうに上向かない。
いつしか、電力の開発プロジェクトは立ち消えとなった。
中垣は一人、無念の想いをかみしめる。

「電力会社に電力を提供する今の会社のありかたは、所詮、補完役にすぎない。国策会社として業務内容に規制を受ける特殊法人組織にいつまでも甘んじなければならないのか・・・」

それからしばらくして、中垣はある決意を胸に、経営首脳陣によるミーティングへ臨む。
中垣の発言を耳にした経営首脳陣は一様に驚きの表情を浮かべた。

「何を言っているんだ。そんな事を、やる必要があるか。」

多くの役員社員が反対あるいは消極的な対応をするなかで、中垣は強行に自分の意見を主張した。
果たして、波紋を呼んだ中垣の発言とは?

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