| 今回のトップは日本郵船株式会社 取締役会長、草刈隆郎(くさかり・たかお)。
日本郵船は明治18年(1885年)日本で最初の海運会社として発足。
以来、海・陸・空と輸送網を拡大し、今や120年の伝統と世界的な規模を誇る総合物流企業である。
また、近年は中国経済の活況が追い風となり、過去最高の業績を達成している。
会社が好況に沸く昨年4月、草刈は会長に就任した。
しかし、その第一声は・・・。
「会議室から飛び出せ!旧来のやり方から脱却しろ!」
会社が過去最高の業績を上げる中、さらなる変革を目指す草刈。
その信念はかつて下した苦渋の決断から生まれたものだった。
ミドル時代、草刈は歴史と伝統に安住し時代の変化に遅れをとる会社の体質に危機感を覚える。
その改革に立ち上がった草刈を待ち受けていたのは想像以上の痛みと軋みだった。
その時、男は何を考え、どう行動したのか!?
経済界では有数のラガーマンとして知られる草刈隆郎のタックル人生に迫る!
昭和15年(1940年)、草刈は東京西麻布に生まれた。
父は後に常務取締役まで果たした銀行マン。
厳格で教育熱心な家風のもと、草刈は番町小学校、麹町中学と当時のエリートコースを歩み、昭和30年(1955年)都立日比谷高校に入学する。
このまま、東大に進学し、末は博士か大臣かと周囲は期待し、本人もそう思っていた。ところが・・・
草刈はラグビーに出会う。
「何だか知らないけど面白そうだ。それに『ラグビー』って語感がイカスよな。」
草刈はたちまちラグビーに夢中になる。
と、同時に本来持っていた“バンカラ”気質が頭を持ち上げる。
午後からは学校をさぼり、映画館に直行。
さらに「頭の体操」と称して雀荘にもいりびたった。
優等生だった草刈の急変に教師は激怒し、こう怒鳴ったという。
「当校は都立日比谷高校。オマエは私立日比谷高校だ。」
それでも草刈はラグビーの練習だけは熱心に打ち込んだ。
当時の日比谷高校では受験で忙しくなる3年生は部活を引退するのが通例。
しかし、草刈は3年生になっても後輩の指導に当たった。
これが2年後の日比谷高校ラグビー部、初の全国大会進出の下地となる。
ラグビーで得たものはと問われると草刈は必ずこう、答える。
「タックルは怖い。しかし、それをやらないと勝利の栄冠は輝かない。チームのために、全員が恐怖心に打ち克つ。それがラグビーだよ。」
そんな草刈は、その後慶応大学に進学し一段とラグビーに打ち込む。
そして大学卒業後、日本郵船に入社。
昭和48年(1973年)、世界の海運の中心であり、あこがれていたロンドン支店に赴任することになる。
昭和52年(1977年)、草刈は4年間のロンドン支店勤務を終え、帰国する。
海外での経験と実績を日本で活かす。
その決意を胸に草刈は久しぶりに東京本社に出社した。
しかし、そこで草刈が見たものは・・・
出勤簿が無いことをいいことに、出社時間にルーズな社員。
スピードが第一の事項でもいちいち稟議書を作るプロセスの無駄。
ダラダラと深夜にまで及ぶ会議。
当時、日本郵船の業績は好調であり、「海の男の仕事」という伝統的な社風も手伝って、会社の空気はいい意味で言えば豪快、裏返すと野放図であった。
草刈は一人、危機感を募らせる。
「歴史と伝統の上にあぐらをかいていると、気付いた時には手遅れになる。何とかしなければ・・・」
そんな矢先、草刈はトヨタ自動車と仕事をする機会を得る。
当時、トヨタは輸出量を年々、増やす飛躍の時代を迎えていた。
そのトヨタのヨーロッパへの輸出を草刈は担当。
運賃などの交渉を行っていたのだ。
トヨタのビジネスは、コスト積み上げ方式で運賃の割引を求めてくる。
他社が今までの慣例に則ってシャンシャンの手打ちで済ませていたのと比べ、
極めて合理的でタフな交渉だった。
「世界を相手にするこれからのビジネスに今までのやり方は通用しない。」
さらに時代は急変する。
それまで「海運カルテル」により寡占体制に守られていた海運業にアジアの新興会社が続々と参入、価格競争を仕掛けてきたのだ。
そのあおりで伝統を誇るアメリカの大会社が倒産するという事態まで起こった。
「このままでは、我が社は危ない。何とかしなければ・・・」
そして、草刈は決断する。男は渾身のタックルに全てを賭けた。
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