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直撃! トップの決断 バックナンバー 司会:長谷川洋三 アシスタント:栗原由佳
■放送日 2月6日
株式会社 東芝 取締役 代表執行役社長 岡村正

 長期低迷にあえぐ日本経済の中でも、元気な会社がある。そういった会社にはたいてい、波乱万丈、艱難辛苦を乗り越えてきた改革精神旺盛なトップがいる。 この番組では、「年功序列」「終身雇用」が崩壊し、かつてない競争社会に身をおく私たちにとって、最高の「教材」である企業トップの生の声を聞き、その半生から激動の時代を力強く生きぬくための方法を学ぶ。司会は近著に「ウェルチが日本を変える」「ゴーンさんの下で働きたいですか」などがある日本経済新聞社編集委員・長谷川洋三。長年の新聞記者経験を生かし、経営者に鋭く迫る。

今回のトップは 株式会社 東芝 取締役 代表執行役社長、岡村正(おかむら ただし)。

東芝は1875年(明治8年)、東京 銀座で創業。
以来、日本初の白熱電球を皮切りに、我が国初の電気製品を次々と世に送り出し、総合電器メーカーとして常に業界をリードしてきた。

東芝が創業125周年を迎えた2000年(平成12年)、岡村は社長に就任した。
しかし、翌2001年東芝は「史上最悪の決算」と呼ばれた2540億円にものぼる連結赤字を計上。
この危機にあって、岡村は1980年以降の東芝黄金時代の象徴、DRAM(随時書き込み読み出しメモリー)の撤退を決意。
さらに組織、事業構造、企業風土の改革を大胆に推し進めた。
過去の成功体験にとらわれず、「タブー無き改革」に取り組む岡村、その経営哲学はミドル時代のある体験から培われた。

重電、家電、コンピューターが本流の東芝にあって、岡村は長らく傍流とされた計測事業部に所属。
しかし、先行他社の厚い壁にはばまれ、業績はふるわず、新規参入組の悲哀をたっぷりと味わった。
客にこう、言われたこともあったという。

「日曜劇場の東芝なら知っているが、東芝の計測機器なんて聞いたこともない。」

この悔しさをバネに岡村はある決断を下す。

赤字続きの傍流にあって、男は何を考えどう行動したのか?!
ラガーマンとしても知られる岡村正、その常にトライに挑むビジネスマン人生に迫る。


1938年(昭和13)、岡村は東京都中野区に生まれた。
戦争中は、静岡、和歌山に疎開。終戦後まもなく、東京に戻る。
父、誠之は元職業軍人。慣れぬ行商で一家を支えた。
体の弱かった父の代わりに母、マスヱが働きに出たこともあったという。
生活は苦しかったが、岡村は両親の愛情のもと、すくすくと育った。

1958年(昭和33)東京大学法学部に入学。
177p、75sと大柄だった岡村はラグビー部に入り、2年生でレギュラーの座を獲得する。
当時、東大は早稲田、明治、慶応など強豪がひしめきあう対抗戦グループに所属していたが、リーグ戦では1勝もできずにいた。

そんなある日、当時のキャプテンはこう、宣言した。

「今年は3勝する。専修大、防衛大、成蹊大に勝とう。あとは負けていい。」

その日から、勝利に向けての猛練習が始まった。まずは、相手チームの特徴、弱点を徹底的に研究、それに基づき、選手一人一人の役割を明確にする。それを実践練習でひたすら繰り返すのだ。
岡村たちは黙々と練習に取り組んだ。

かくして迎えたリーグ戦・・・
東大チームは狙った3戦すべてに勝利を挙げる。

「こうやれば、勝てるのか。」

負け癖が染み込んでいた弱小チームが初めて味わう勝利の味。
岡村はこの時「勝つこと」によって初めて、「真のチームワーク」が培われる事を実感したという。


1962年(昭和37)、岡村は東芝に入社し、設立されたばかりの計測事業部に配属される。
当時の東芝は家電、重電、コンピューターが本流。生産ラインの異常などをチェックする計器類を扱う計測事業部は、まだまだ、これからの新しい部署であった。

数年間のアメリカ留学を経て、岡村は計測事業部の営業を担当。
はりきって、営業に励んだ。・・・が・・・。

足を棒にして営業廻りをしても、どこにも相手にされない。先行他社ががっちりと得意先を囲い込んでおり、後発の東芝には食い込む隙もなかった。

ある時は、こうも言われたという。

「東芝の計測機器なんて、聞いたことがない。お前、本当に東芝日曜劇場の東芝か?」

テレビ番組より知名度がない・・・。
岡村は悔しさに身を震わせた。

そして、岡村は決断する。
この決断が後に、「赤字続きの傍流」計測事業部を大きく飛躍させる事となる。

男は目を伏せることなく、前傾姿勢のままトライを敢行した。
直撃! トップの決断