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直撃! トップの決断 バックナンバー 司会:長谷川洋三 アシスタント:栗原由佳
■放送日 1月23日
テルモ株式会社 代表取締役 会長兼最高経営責任者(CEO) 和地 孝

 長期低迷にあえぐ日本経済の中でも、元気な会社がある。そういった会社にはたいてい、波乱万丈、艱難辛苦を乗り越えてきた改革精神旺盛なトップがいる。 この番組では、「年功序列」「終身雇用」が崩壊し、かつてない競争社会に身をおく私たちにとって、最高の「教材」である企業トップの生の声を聞き、その半生から激動の時代を力強く生きぬくための方法を学ぶ。司会は近著に「ウェルチが日本を変える」「ゴーンさんの下で働きたいですか」などがある日本経済新聞社編集委員・長谷川洋三。長年の新聞記者経験を生かし、経営者に鋭く迫る。

今回のトップはテルモ株式会社 代表取締役 会長兼最高経営責任者(CEO)和地孝(わちたかし)。

テルモは1921年、北里柴三郎博士をはじめとする医学者たちの手により、優れた体温計の国産化を目指して、赤線(セキセン)検温器株式会社として創設された。
以来、注射器や輸液パックなど病院で身近に使われる医療機器から、血管治療用のカテーテルや人工心肺システムなど、高度な医療に使われる最先端の製品まで幅広く製造している医療機器メーカーである。

この不況下にありながら、売上高は10年前のおよそ2倍におよび、収益も過去最高益を更新して右肩上がりの成長を遂げている。

しかし、わずか15年程前−。
業界第1位に君臨していたテルモに暗雲が立ち込めていた。3期連続の赤字を記録したのだ。

その危機を救ったのが、現在、会長となった和地である。

1989年、当時の富士銀行から役員として招かれた和地は94年には副社長、95年には社長という重責を担い、テルモを再び成長路線へと導いていった。

「人を大切にして人を動かす」
と語る和地は、果たしていかなる決断でテルモを再生させたのか!?
和地孝の原点と経営哲学に迫る!


和地は1935年、神奈川県逗子市で産声を上げる。
両親はともに教師。
文学好きだった母の影響を受けて、小学生のころから、鴎外や漱石を読破する本好きの少年だった。

和地の人間形成に重要な役割を果たしたのが、中学時代の経験である。
中学2年の時に、生徒会長に立候補、3年生を抑えて見事選ばれたのだ。

時は戦後間もない昭和22年。
新制中学が始まったばかりの頃。3年生のけんかの仲裁までさせられた。公立ゆえ様々な家庭環境の生徒がいた。

それを束ねていく中、どんな人とも分け隔てなく付き合うことの大切さやリーダーシップを学んでいった。

神奈川県立横須賀高校を卒業後、横浜国立大学に入学。
大学のゼミの先生からの薦めもあって、富士銀行に就職する。


1989年、和地は富士銀行 取締役業務企画部長からテルモに常務取締役として迎え入れられる。
医療機器メーカーとしてトップに君臨していたものの、和地が就任した1980年代後半、成長に衰えが見え始める。

1990年代初頭には、3期連続の連結赤字を出した。
和地はテルモに来た当初からこの危機的状況の原因が、20年以上続いていた当時の社長のワンマン経営にあることを感じていた。

和地が特に気にしたのは、会社の風土である。ミスを恐れるあまり上司からの指示がないと動けない「指示待ち」体質の社員たち。
また、部署ごとに厚い壁があり、社員たちは他部署の仕事に興味を持たないため、研究から生産、販売までの工程がスムーズにいかなくなっていたのだ。

そんな中、1993年、当時の社長が病気で急死する。
1994年、副社長となった和地は経営を実質的に任されることになる。

和地は、まず、全国の支店や工場、さらに2、3人の営業所に至るまで訪問することから始めた。
和地は、これからは社員一人ひとりの主体性を大切にする経営をしていく、ということを説いて回った。
全国を回り終わるのに、実に2年半の歳月を要した。

しかし、それでもこれまで長期にわたり、トップの目の色を伺いながら仕事をしていた社員達の中には、その体質を変えることのできない者も数多くいた。

1995年「企業風土の改革」を目標に掲げ、社長に就任。そこで、和地は自ら温めていたアイディアを決行する。果たしてテルモの企業風土改革の決定打となった決断とは!?
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