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直撃! トップの決断 バックナンバー 司会:長谷川洋三 アシスタント:栗原由佳
■放送日 1月9日
加ト吉 代表取締役社長 加藤義和

 長期低迷にあえぐ日本経済の中でも、元気な会社がある。そういった会社にはたいてい、波乱万丈、艱難辛苦を乗り越えてきた改革精神旺盛なトップがいる。 この番組では、「年功序列」「終身雇用」が崩壊し、かつてない競争社会に身をおく私たちにとって、最高の「教材」である企業トップの生の声を聞き、その半生から激動の時代を力強く生きぬくための方法を学ぶ。司会は近著に「ウェルチが日本を変える」「ゴーンさんの下で働きたいですか」などがある日本経済新聞社編集委員・長谷川洋三。長年の新聞記者経験を生かし、経営者に鋭く迫る。

 今回のトップは、加ト吉 代表取締役社長 加藤義和(かとうよしかず)。
加ト吉はエビフライやコロッケ、さらにうどんなどの冷凍食品を主に手がける総合食品メーカーである。

1956年創業、加藤が弱冠20歳の時であった。
当時、エビやカニなど水産物の加工・販売を手がけ、売り上げは2,000万円足らず。
その後、48年もの間、成長が止まることはなく、いまや売上高2,000億円以上に達している。

幼少期に戦争で父を亡くし、貧しい家庭で育った加藤は、中学を卒業するとすぐに蒲鉾を売り歩く行商や水産卸などで家計を支えていた。加ト吉創業以来の躍進は、若かりし加藤のこの苦労が支えていると言っても過言ではない。

いまや、当たり前のように食卓に並ぶ冷凍食品。加藤は40年以上前から、この冷凍食品全盛の食文化を、予測していた!「努力すれば必ず道は開ける」と信じて疑わない苦労人、加藤義和。

食文化を変えたともいえる加藤の挑戦、そして決断に迫る!

1936年、加藤は香川県観音寺市で生まれる。
幼い頃に父が太平洋戦争で戦死したため、母と祖父に育てられた。
加藤は自分の原点が、幼い子供を育てるために必死に働く母の姿にあると振り返る。祖父の営む水産加工の仕事を手伝っていた母。毎日、陽が昇らないうちに漁港に出かけ、水揚げされた海産物を作業場まで何往復も運んだ。そして加工作業が終わるのは深夜1時を回った。

また、漁獲シーズンが終わっても、農家の刈り入れの手伝いをしたり蒲鉾店を手伝ったりと、休むことなく働き続けた。
母の背中を見ていた加藤は、中学時代から祖父の下で、水産加工の手伝いをするようになる。ここで魚の買い付けから天日干しの仕方、さらに出荷するまでの全工程を教え込まれた。

しかし、中学3年生の時に祖父が脳梗塞で他界。

加藤は家計を助けるため、高校進学を断念し、行商を始める。地元の蒲鉾店から蒲鉾を仕入れ、自宅のある観音寺から25キロ離れた金刀比羅宮のある琴平町まで自転車で運び、旅館などに売り歩いた。
10代の頃に味わった苦難の日々が、後の加藤の人生の糧となった。

加藤は1956年、弱冠20歳の時に加ト吉を創業する。
当時の商いは、亡き祖父が営んでいた水産加工業。猫の手も借りたいほど忙しく、母と弟、そして妻の4人だけで、奔走する毎日だった。

創業の翌年には海外への足がかりを作った。
アメリカへカクテルシュリンプと呼ばれる小エビの加工品を輸出し始めたのだ。加ト吉の業績は順調に伸びていった。
しかし、加藤は何か胸につかえる危機感を抱いていた。
「このままでいいのだろうか・・・」

1960年代に入ると加藤の不安が確信へと代わる。瀬戸内海が石油コンビナートの建設などにより汚染され始め、海産物の漁獲量が徐々に減り始めた。

また、同時期にはインスタントのラーメンやコーヒーが家庭に入り、食生活の多様化が始まっていた。加ト吉の主力であった煮干しは、手間がかかるという理由で、主婦から敬遠され始めたのだ。
「今は順調に見えるが、数年後に必ずや危機が訪れる。今の段階で何かしら手を打たねば・・・」

そこで加藤は決断を下す。それは現在の加ト吉を作り出すとともに、日本の食文化にも影響を与えた大きな決断だった。

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