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今回のトップはオムロン株式会社 代表取締役会長 立石義雄(たていし よしお)。
オムロンは主力のオートメーション機器をはじめ、電気製品や自動車に組み込まれる電子部品、ATMや自動改札機、ヘルスケア機器に至るまで、センシング&コントロールという技術を軸に、事業を多角的に展開している、エクセレントカンパニーである。
オムロンの創業は1933年。創業者立石一真が開発した、レントゲン写真を20分の1秒で正確に撮影できるタイマーの生産を「立石電機製作所」で開始したことに始まる。1990年には当事社長だった立石義雄の下「オムロン」に改名。ベンチャーの元祖と謳われた創業者立石一真のベンチャー精神のDNAを今に伝えている。
1987年、2代目孝雄から社長を引き継いだ義雄は、16年間の長きに渡りオムロンの舵取りを担い、2003年、会長に就任。創業家に生まれ育ったとはいえ、義雄のビジネスマン人生は挑戦と改革の連続だった。
ゼロからの新規事業の立ち上げ。
赤字脱却のための経営改革。
そして大企業病との闘い。
改革者、立石義雄の原点と経営哲学に迫る!
1939年、立石義雄はオムロン創業者立石一真の三男として大阪市に生まれる。
よく走り回るやんちゃ坊主。ソフトボール、めんこ、ビー球など、皆で遊ぶことが大好きだった。
中学から同志社に学び、中学・高校とバレーボール部に所属。同志社大学経済学部に進学する。
そこで立石は能楽に興味を持つ。体を動かす「動」の世界しか知らない少年が、ゆっくりとした動きと伝統の重みの中に言い知れない精神性、「静」の世界を感じたのだ。立石は能楽部に所属し謡曲を謡った。4年生になると自ら演じることも体験する。
学生時代を通じて「静と動」を体験した事は、立石のビジネスマン人生にどのような影響をもたらしたのか?
立石義雄は同志社大学卒業後、ニューヨークで2年半、立石電機製作所(現オムロン)の初代駐在員として事業開拓に従事、帰国後は新規事業部門に配属される。
新規事業は、立石電機の技術開発力と機動力で着実に成果を上げていった。
鉄道会社の自動改札機。
銀行のATM。
交通管制システム。
全てが日本初の試みであり、売上も拡大した。義雄は営業の最前線で奮闘した。
しかし、1975年、76年と2期連続の赤字を計上する。
義雄は経営改善委員長に任命される。
社長の一真からの要求は「抜本的に改革せよ」義雄は経営コンサルタント大前研一や30代の若手社員らと合宿して徹夜で議論を戦わせた。
出てきた答えは、電卓事業とカリフォルニアに設立していた研究開発法人の撤退。多角化した事業を見直し、経営資源の再配分を行う。そして、意思決定の仕組みを明確化するなど、今で言うコーポレート・ガバナンスの充実に取り組んだ。
その結果、立石電機は見事に甦る。
1978年には京都の製造業で初の売上高1000億円を達成する。
しかし、暫くして創業者一真はある事に気付き慄然とする。主力の制御機器のシェアが他業者に食われ始めていた。にもかかわらず会社の動きが鈍いのだ。
顧客に対するレスポンスの遅さ。
やたらと多い会議の数。
管理職の官僚化。
我社は「大企業病」に犯されている。
一真はハッキリと認識した。
ベンチャー企業は大企業になっていたのだ。義雄は制御機器本部長に任命され、本業の回復に奔走した。
そんなある日、義雄は一真にうなぎ屋に誘われる。
「義雄、社長をやれ」
「・・・技術屋ではないので自信がありません」
「これからは、市場や顧客の視点で技術を見て、技術者を方向づけることが重要だ。それが出来るのはお前しかいない」
「売上高2800億円の企業を率いていく自信がありません・・」
「社長として誰にも負けない情熱を持て。そうすれば、人材は集まり、人はついてくる。お前の力で“大企業病”を克服してくれ」
義雄は社長を引き受けた。
まずは社員の生の声を聞くために「社長への手紙」を開設、また「ザKURUMAZA」と題したミーティングを開始した。
そしてその声を元に、ある決断を下す。
果たして立石義雄が大企業病を克服するために下した決断とは!?
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