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今回のトップは、石油資源開発株式会社 代表取締役社長 棚橋祐治(たなはし ゆうじ)。
石油資源開発は1955年創設。以来、国内及び海外において、石油や天然ガスなどの鉱脈の探査と開発を積極的に推進するとともに、生産・輸送・販売までを一貫して行う、総合エネルギー供給会社として国民のライフライン確保の一翼を担ってきた。2003年12月には東証1部に上場、エネルギー関連の国策会社として、初めて市場経済の中に登場して注目を集めている。
そんな石油資源開発の舵取りを担うのが棚橋である。2001年社長に就任した棚橋は、元通産官僚。早くから通産省のエースと謳われ、事務次官まで上り詰めた男である。子息は棚橋泰文
衆院議員。現在、科学技術・食品安全・ITを担当する、内閣特命担当大臣である。
通産官僚としてエリートコースを歩み続けた男にはどんな苦悩があったのか?そして今、石油資源開発をどう導いていくのか?棚橋祐治の苦悩の決断と経営戦略に迫る。
1934年、棚橋は岐阜県岐阜市に生まれる。軍人であった父を3歳の時に亡くし、母と祖父母に育てられた。母や祖父母の苦労を見て育った棚橋は、少年時代からよく農作業を手伝った。
学業成績は抜群で、岐阜北高校から東京大学法学部に進学。ゼミで田中二郎教授と出会う。行政法・自治法が専門の教授は早くから「広域行政の必要性」を説いていた。将来国のために働きたいと考えていた棚橋は、田中教授に感銘を受けた。
ゼミの同期には、自治省に入り、後に自治大臣となる片山虎之助参院議員がいた。棚橋は田中教授に自治省への入省を勧められる。しかし、棚橋には夢があった。
「日本はまだまだ経済発展が必要だ。出来るならば、産業政策を担う通産省に入りたい・・・。」
棚橋は自らの夢に突き進み通産省に入省。事務次官というトップに向けて歩み始めた。
通産官僚として多忙な日々を送っていた棚橋は1973年、日本貿易振興会(ジェトロ)のデュッセルドルフセンター所長としてドイツに赴任していた。10月には第四次中東戦争が勃発。第一次オイルショックが起こる。日本では「狂乱物価」と言われるインフレが巻き起こり、スーパーからトイレットペーパーが消えた。まさに「狂乱」であった。
しかし、棚橋がいたドイツでは事情が違った。エネルギー消費は石炭が中心だったが、石油に依存するところも大きい。しかし、ドイツ国民に「狂乱」したような売り惜しみや買占めはなかった。棚橋は民族的な違いを感じるとともに、危機での対処法を学んだ。
1977年、棚橋は福田赳夫総理の内閣総理大臣秘書官となる。総理秘書官経験者は将来事務次官になる、と言われていた。結果的に棚橋も例外ではなかったが、そんな感慨に耽る間もなく、次々と持ち上がる難題への対処に追われた。
カラーテレビが対象の日米貿易摩擦。
「人命は地球より重い」という銘台詞を残した、ダッカ日航機ハイジャック事件。
そして、景気対策のための赤字国債発行。
これらはすべて福田総理の苦渋の決断であったと同時に棚橋等秘書官も苦渋をともに味わったのである。棚橋は福田総理の政治姿勢に共感をもった。何より「お金」にクリーンな政治家だった。
しかし、福田内閣は短命であった。
1978年11月26日、2期目の総裁選、予備選挙の開票日。福田総理は再選を信じて疑わなかった。
「天の声は我にあり」
しかし、ふたを開けてみると、大平正芳に大差の2位。この時点で福田は本選挙を辞退する。その時の言葉が
「天の声にも時々変な声がある」
記者会見の舞台裏で棚橋は涙した・・・。
そして1991年、棚橋は事務次官として通産省のトップを極める。しかし、またもや日米通商交渉に頭を痛めることになる。
自動車貿易摩擦である。
ブッシュ政権は強硬に自動車の完成品輸出の縮小を訴えてきたのだ。思い起こせば拡大する高度安定成長を影から支えると同時に官僚人生の大半を日米貿易摩擦の解消に費やしてきた。
今、ここで事務次官として日米関係に禍根を残してはならない。
そして、棚橋は決断する。しかし、それは日本の自動車業界を震撼させる苦渋の決断だった。
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