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直撃! トップの決断 バックナンバー 司会:長谷川洋三 アシスタント:栗原由佳
■放送日 10月17日
帝人株式会社 取締役会長 安居祥策

 長期低迷にあえぐ日本経済の中でも、元気な会社がある。そういった会社にはたいてい、波乱万丈、艱難辛苦を乗り越えてきた改革精神旺盛なトップがいる。
 この番組では、「年功序列」「終身雇用」が崩壊し、かつてない競争社会に身をおく私たちにとって、最高の「教材」である企業トップの生の声を聞き、その半生から激動の時代を力強く生きぬくための方法を学ぶ。司会は近著に「ウェルチが日本を変える」「ゴーンさんの下で働きたいですか」などがある日本経済新聞社編集委員・長谷川洋三。長年の新聞記者経験を生かし、経営者に鋭く迫る。

 今回のトップは、帝人株式会社 取締役会長 安居祥策(やすい・しょうさく)。帝人といえば大手繊維メーカー いや・・・。(CM)「だけじゃない、テイジン」にもあるように、そう、今や繊維だけではないのである。衣料・産業繊維をベースに、フィルム、樹脂、医薬・医療、流通、ITまで、多角的にそしてグローバルに展開している。しかしそれは、拡大路線をひた走ったカリスマ経営者、大屋晋三亡き後、10年にも及ぶ不採算事業の整理撤退と慎重なM&Aの末に生まれ変わった姿である。徹底した「選択と集中」「コーポレートガバンス」で帝人復活のノロシを上げたのが安居である。しかし、トップに昇り詰めるまでの安居のサラリーマン人生は決して恵まれたものではなかった。20年間の様々な出向、10年間の海外勤務という異例の人事。その中で、安居はいかに企業人としてモチベーションを維持し続けたのか。帝人・中興の祖、安居祥策の原点と経営哲学に迫る!

 1935年安居は京都で生まれる。父 金一は悉皆(しっかい)業と京友禅の店を経営していたが、バイオリンや野球に興じる趣味人だった。ボンボン育ちの安居だったが、体が弱く、国民学校2年生の時、滋賀県にある父親の実家にあずけられた。この実家というのが老舗の和菓子屋で、屋号が「金平軒」。代々長男の名前には「金」の一文字を使うのだが、それを嫌った父親は安居に姓名判断で祥策と名づけた。自分の代からお金に縁がないのはその為だと安居は言う。田舎では勤労奉仕の畑仕事などもやらされたが、甲斐あって徐々に体力がついていった。中学2年で帰京。今は英語力に定評のある安居だが、この時は英語に苦労する。田舎では英語教師がおらず、勉強していなかったのだ。結局大学までは一番の苦手科目だった。現役で京大経済学部に入学。そこで、青山秀夫教授と出会う。数学的な分析による経済学が専門の教授は、学問の人だったが、人間としての生き方も教えてくれた。「基本に忠実である事」「一人で出来る事には限界がある、グループで仕事をする事」「困難を前に、逃げるのではなく、挑む事」後に社長として帝人を復活させた安居の合理的な経営手法や原理原則重視の考え方は青山教授の影響が大きい。安居にとってまさに生涯の師との出会いであり、人間形成の原点であった。

 1957年、勃興期にあった合繊産業に夢を描き帝人に入社した安居だったが、人事面では不運を極めた。最初の辞令は広島県にある三原事業所男子寮の管理人である。半ば家庭教師のようなよろず相談員で、女子コーラス部の指導までやらされる始末。初の海外赴任で赴いた台湾では、現地のメーカーとポリエステル製造の合弁会社を一から立ち上げ、帰国後はビデオ事業の合弁会社からの撤退に奔走した。更に、輸入車販売を手掛ける帝人ボルボへ出向。国産車の売り方を徹底的に研究、4年掛かりで赤字脱却に成功した。この出向で安居は、素材ではなく車という最終商品を売ることの難しさと喜びを知る。安居の中で、このまま車屋でいくのも悪くないという気持ちが芽生え始めた1981年、本社への帰還命令が下る。部署は海外事業第2部、役職は部長。当時、帝人は多角化路線をひた走った大屋晋三社長が亡くなり、新体制の下様々な整理に追われていた。海外事業部では存続させるのが第1部、撤退するのが第2部と決められていた。撤退のために設けられ、業務終了と同時に解散する部署であった。安居は諸外国に赴き粛々と撤退を遂行していった。しかし、この業務は虚しく不本意なものだった。海外業務の撤退をやり終えた安居を待っていたのは、赤字にあえぐフィルムの販売部長だった。赤字を解消し、年間100億円を越す利益を上げるようになった1986年、またもや子会社への出向辞令が下る。帝人商事、常務物資本部長である。ここも業績不振を立て直している真最中である。ここまで来ると、人事ももはや不運では済まされない。既に51歳。本社への帰還はまず考えられない。折り良く他社から転職の誘いもある。安居は退職を真剣に考えた。とりあえず、一度出社してみる。とその日、取引先が倒産する大騒ぎ、帝人商事の人には「帝人から10年間で10人目の本部長、そんなことで仕事が出来ますか」と言われる始末。しかしこれが、安居に火をつけた。「ならば、私が定年までやりましょう」そして、安居はある決断を下す。当時、帝人商事は取引先への融資が焦げ付き、不良債権化していた。このままでは再建は儘ならない。もっと危機意識を持たねば。果たして危機管理のために安居が下した決断とは!?

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