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直撃! トップの決断 バックナンバー 司会:長谷川洋三 アシスタント:津島亜由子
■放送日 9月5日
ヤマハ発動機株式会社 代表取締役社長 長谷川 至

 今回のトップはヤマハ発動機株式会社 代表取締役社長 長谷川 至(はせがわ とおる)。 オートバイをはじめ、モーターボート、四輪バギー、スノーモービルなどのアウトドア製品から、産業用ロボットまで、ニッチで幅広い事業を展開するヤマハ発動機。船外機、中型の電子部品表面実装機では世界トップシェア。モーターボート、無人ヘリコプターなどでは国内トップを誇る、海外売上比率86%のグローバルカンパニーである。ヤマハ発動機の設立は1955年。日本楽器の二輪車部門が独立してヤマハ発動機となった。その後、名車といわれるトヨタ2000GTで自動車のエンジンにも進出。着実に業績を伸ばしていった。しかし、バブル崩壊、国内の二輪車需要の低迷などで、伸び悩む業績に前社長 長谷川 武彦が社内の構造改革に着手。それを引き継ぎ、2001年社長に就任し、3年間で営業利益3倍という偉業を達成したのが長谷川 至である。 お寺の息子として過ごした少年時代。足を棒にしてアメリカを駆け回った新規事業の立ち上げ。政治に翻弄され積みあがる在庫の山。数々の苦難を乗り越え、現場百回を信条とする男の経営哲学と決断に迫る!

 1936年、長谷川は新光明寺の住職を務める父 至道の3男として静岡県静岡市で生まれる。幼いころから寺の仕事を手伝い、葬式、法事、果ては酒の席まで父親の代理を務めるなど、家業の手伝いに明け暮れる毎日だった。1956年、横浜国立大学 経済学部に入学。大学ではヨット部に所属。過酷なヨットレースの厳しさ、自然をいかに利用するか、など様々なことを体験した。ゼミは簿記会計で高名な沼田 喜穂教授のゼミに所属。この沼田教授との出会いが長谷川の運命を決めた。著作の多かった教授の本は次々とヒット。「本というのはみんなが最初から最後まで読むようなものはたくさん売れない。この本を買っておけば何かのときに役に立ちそうだ、という本だと売れる。」なんて商売の勘の鋭い人なのだろう。教授の言葉に長谷川は感銘を受けた。いよいよ就職となり、お菓子メーカーとヤマハ発動機、どちらに就職するかで迷っていた長谷川に、教授はこうアドバイスした。「お前はヤマハに行け」商売センス抜群の教授にこう言われた長谷川はヤマハ発動機への入社を決意。1960年、社会人への第1歩を踏み出した。

 1960年、ヤマハ発動機に入社した長谷川は経理担当として名古屋支店に配属。その後営業に携わり東京支社?、広島支店?などを経て1967年、アメリカのヤマハインターナショナルへ赴任。アメリカでのスノーモービル販売をゼロから立ち上げることなった。販売網を築きあげるため、エンジニアとともに広大なアメリカ大陸を飛び回った。当時アメリカではスノーモービルのレースが盛んに開催されており、製品は面白いように売れた。初年度500台だった売り上げは、5年後には3万台を売り上げるまでに成長した。やがて、長谷川はヤマハ発動機のアメリカ国内での販売を一手に引き受ける責任者に抜擢。中核を占めるオートバイの販売事業も手がけるようになった。順風満帆に見えた長谷川の前に、1971年、突然大きな壁が立ちはだかった。
 ニクソンショック。 1ドル360円の固定相場だった為替は変動相場制に移行。急激な円高の進行で、日本からの輸入コストが跳ね上り利益率は激減した。アメリカの国内需要の冷え込みとも相まってオートバイの販売台数は見る見る落ち込み、瞬く間に在庫が積み上がっていく。それでも日本からは次々と製品のオートバイが送られてくる。長谷川は、日本に生産の縮小を要請。しかし、本社からは急な縮小には応じられない、今まで通り、がんばって売れという返事。最終的には20万台という膨大な在庫を抱えてしまった。窮地に陥った長谷川は、ここである決断を下す。在庫を消化するために長谷川が下した決断とは!?

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