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直撃! トップの決断 バックナンバー 司会:長谷川洋三 アシスタント:津島亜由子
■放送日 8月22日
田ア 雅元  川崎重工業株式会社 代表取締役社長

 今回のトップは川崎重工業株式会社 代表取締役社長 田ア 雅元(たざき まさもと)。
 オートバイから、鉄道車両、航空機、各種プラントまで、幅広い製品ラインナップで世界に躍進する川崎重工。確かな技術と品質で、車両事業、中小型産業用ガスタービンではトップシェアを誇るエクセレントカンパニーである。 川崎重工の開業は1891年、前身である川崎造船所の設立まで遡る。以来110有余年、造船、鉄道車両、航空機などの重工業を中心に業績を拡大し続けてきた。そんな川崎重工で、2000年、オートバイなどの汎用機部門出身としては初の社長に就任したのが田アである。終戦直後、満州からの引き上げで経験した苦難の日々。単身アメリカに乗り込んで、ゼロからの市場開拓。赤字会社に送り込まれての苦渋の決断。重工業から柔工業へ、企業カルチャーを改革するという重責を担った男の経営哲学と決断に迫る!

 1935年、田アは旧満州の奉天で生まれる。父親は、満州医科大学を卒業し、ハルピン赤十字病院を経て京城大学医学部の助教授だった。父親についてハルピンやソウルなどを転々とし転校を重ねた。第二次世界大戦の戦局悪化に伴い、両親と離れ大連の母方の祖父母の元へ縁故疎開。1945年、大連で終戦を迎えた。両親と離ればなれで2回の冬を過ごし、1947年3月、引き揚げ船で帰国し、宮崎県で育つ。転校、疎開、引き上げなど、目まぐるしく変わる環境の中で、幼い田アは「環境の変化に柔軟に対応する」ということを身につけていった。 1954年、九州大学工学部へ進学。何か特技を持つことで、環境が変化する中でも親しい仲間ができる。そう考えた田アは、スキー、スケート、テニス、社交ダンス、ピアノ、ボーリングなどあらゆることに挑戦した。航空機関系の仕事に憧れていた田アは、1958年、川崎航空機工業へ入社、社会人としての第1歩を踏み出した。

 1958年、川崎航空機工業へ入社した田アは、ジェットエンジンのエンジニアとして働いた。しかし、そんな田アに突然異動の辞令が下る。辞令はオートバイ部門への転属だった。航空機、船舶、鉄道車両などの重工業が中心の川崎重工ではオートバイ部門は傍流。航空機部門からオートバイ部門への転属。田アの中には新たなる決意が必要であった。 1965年、田アは突然、アメリカへの赴任を言い渡される。上司が口にした任務はこんな内容だった。「どうもアメリカでお客様からの苦情が多発している。おまえが行って何とかしてこい。」当時の川崎重工は、商社を通じてアメリカへオートバイを販売はしていたものの、直営の拠点は一つもない状態だった。そのため、迅速なサービスが提供できず、多くのクレームが寄せられていた。田アは単身シカゴに乗り込んだものの、右も左もわからない状態だった。事務所もない、知人もいない、手元に有るのは工具箱が一つだけ。田アはクレームに対応するために、アメリカ中のディーラーを駆け回った。しかし、一人きりで広大なアメリカ全土をカバーするには限界がある。いったいどうすれば・・・。ここで田アはある決断を下す。田アが下した決断とは何だったのか!?

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