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1933年、小林はロンドンで生まれる。父親は岩井商店の駐在員としてロンドンに滞在していた。小林が生まれて8カ月後に一家は帰国、父は帰国後間もなく富士写真フイルムの創設のために転職した。
「秀才は努力すれば誰にでもなれるが、天才は違う。それは有る意味で尊敬に値しない」という持論の、努力の人だった。
1939年、小林は慶應幼稚舎に入学。野球少年だった小林は、英語に興味を持つようになる。それまではどちらかというと英語は苦手で嫌いな方だった。しかし、憧れの大リーガーの情報を得るために英語の雑誌を読んだり、ピッチャーだった自分のレベルアップのために英語で書かれた最新の野球技術書を読むにはどうしても英語が必要だった。そして、アメリカ映画に登場するスクリーンの中の美女達。将来万が一にも彼女たちと会うことがあるかも知れない。英語を喋れなければ話にならない。小林少年は必死に英語を勉強した。
1952年、慶應義塾大学経済学部に進学。2年生になるとメンバーの半分は外国人という東京ローンテニスクラブに入った。ここで小林はさらに英語力に磨きをかける。大学卒業後、1956年アメリカのペンシルバニア大学大学院ウォートンスクールに留学。MBAを取得して帰国後の1958年、当時父親が副社長だった富士写真フイルムに入社。
入社して4年後、アメリカのゼロックスが日本進出のために富士写真フイルムと合弁会社を設立することになった。調印式のために来日したアメリカのゼロックス会長とイギリスのゼロックス社長が、小林の弟の結婚披露宴に出席。通訳を命じられた小林は披露宴の後、会長の部屋に招待され、こんな誘いを受けた。
「新会社の富士ゼロックスで働いてみないか?」小林は当惑した。富士写真フイルムは業界トップ、転職先は無名の新会社。ニューヨーク駐在も内定していた。当時富士写真フイルムの社長で新会社の社長も兼任することになっていた父親も「新会社が日本で成功するかどうか保証は出来ないぞ」と言う。悩みに悩んだ挙げ句、小林は転職を決意。富士ゼロックス、小林陽太郎の出発だった。
1962年に設立された富士ゼロックスは順調に業績を伸ばしていった。ゼロックスが持つコピー機の特許のため、市場をほぼ独占している状態だった。
しかし1971年、特許の期限切れと同時に状況は一変した。後発メーカーが次々と市場に入り込んできたのだ。ほぼ独占状態だった市場シェアは50%を割り込んだ。オイルショックでの景気悪化を受けて売り上げも減少。技術力と品質、ブランド力に絶対の自信があった富士ゼロックスは、高収益を維持するために2度に渡る値上げを断行した。だが それが、シェア低下に拍車をかけ業績は悪化の一途を辿っていった。
業績回復のために富士ゼロックスはTQC、全社的品質管理を導入。会社の体質や製品を根本から見直そうとしたのだ。当時副社長だった小林はTQC導入のための委員長になり陣頭指揮を執った。TQCの推進で様々な問題が表面化する中、日本独自の製品開発が必要なのではないか?という声があがってきた。それまでは製品の研究と開発は全てアメリカのゼロックスで行ってきた。だが、アメリカと日本では様々な条件が違う。B4サイズなど日本特有の用紙サイズ、広葉樹を原料とした紙の質の違い、高い湿度などの独特の自然条件。これらの条件を克服するため、富士ゼロックスは独自の製品開発に着手した。
しかし、開発投資の重複を懸念したアメリカゼロックス社は独自開発の中止を勧告してきた。後発の日本メーカーに立ち向かうためには日本独自の製品開発が必要不可欠。ゼロックス本体は独自開発の中止を勧告してくる。進退窮まった小林はここで決断を下す。富士ゼロックス復活のために小林が下した決断とは!? |