1934年、神奈川県横浜市で生まれた篠原は母の影響を色濃く受けた。篠原が8歳の時、父親が病死。母親は助産婦の仕事をしながら5人の子供達を育てた。当時資格を持って働く自立した女性は珍しく、篠原は子供心に「母のような女性になりたい」という思いを抱いていく。
1953年、高校卒業後、三菱重工業に入社。当時はまだまだ男性社会で、働く女性は珍しくビジネスガールと呼ばれたが、仕事の内容は事務など補助的なものが主だった。4年後22歳の時に取引先の社長の息子と婚約。しかし、ここから篠原の不幸な前半生が始まる。結婚のために退社の手続きを済ませ、いざ結婚というときになって突然婚約破棄を言い渡されてしまったのだ。会社に戻ることもままならず、結婚も仕事も同時に失った篠原は実家で家事手伝いをしながら数年を過ごした。
1958年、東洋電業に再就職。ここで不動産会社の社長と知り合い結婚。しかし、夫と気が合わず3畳一間のアパートを借りて家出。わずか1年で離婚という結果になってしまった。まるでツキに見放されたかのような不幸な20代だった。離婚後、東洋電業に復職した篠原のなかには、ある想いが渦巻いていた。「ただの事務職で終わりたくない……。母親のような自立した女性になりたい」こんな思いを抱えていた篠原は、1966年、32歳の時留学を決意する。知り合いの居たスイスに留学、その後イギリスへ渡り秘書学と英文タイプを学ぶ。
一旦帰国後、1971年、オーストラリアの会社に社長秘書として就職。ここで篠原は運命的な体験をすることになる。派遣スタッフという仕事の存在を知ったのだ。休暇で1週間休んでいる社員の机に優秀な派遣スタッフがやってきて次々と仕事をこなしていく。「なんて便利な仕組みなんだ!」やがて帰国した篠原は人材派遣業「テンプスタッフ」を設立。社長 篠原欣子の誕生だった。
1973年に篠原が立ち上げた「テンプスタッフ」は創業時の苦しいトンネルを抜け脅威の成長を遂げていった。日本には無かった人材派遣業という仕事も徐々に世の中に浸透していき、様々な企業からの電話が1日中鳴りっぱなしという嬉しい悲鳴をあげるような時代も経験した。派遣スタッフの中から有能な女性を社員にしていき、設立14年目の1987年には女性ばかり75人の社員で100億円を売り上げるという急成長ぶりを見せた。気の合う女性ばかりで和気あいあいとした職場は全員が楽しさと充実感を共有する素晴らしい会社になった。
しかし篠原はここで大きな壁にぶつかる。年商100億円まで成長したものの、そこから先がなかなか伸びなかった。「一体何がいけないのか…」思い悩む日々を送っていた篠原はここで大きな決断を下す。更なる飛躍を目指す篠原が下した決断とは!?
|