1943年、水野は兵庫県芦屋市で生まれる。祖父はミズノを創業した利八、父は後に2代目の社長となる健次郎。創業者の祖父・利八は、1903年19歳の時に日本とアメリカの野球の試合を見て野球に魅せられ、22歳で野球用品を扱う水野商店を設立。夏の甲子園の原点となる関西学生連合野球大会や、都市対抗野球の原点、大阪実業野球大会を開催するなどスポーツの普及に情熱を傾けた「努力と勘と情熱の人」だった。
父の健次郎は理学部出身で学者肌の理論家。スキー板やゴルフクラブなどの材料に新素材を積極的に取り入れた。世界初のチタン製ゴルフクラブ、カーボンのテニスラケットの導入などなど。「科学の目」でスポーツ用品を見る。健次郎はミズノの製品開発力の礎を築いた。水野は、祖父と父、この正反対の個性を持った二人の背中を見て育った。野球、サッカー、スキー、柔道など多くのスポーツに親しむ反面、父の天体望遠鏡を覗くのが大好きという少年だった。幼稚園から一貫して甲南学園で学び、1962年、甲南大学経済学部へ進学。卒業後の1966年美津濃に入社。社会人としての第1歩を踏み出した。
1966年美津濃に入社した水野は総務部社長室へ配属。同年、アメリカのカーセージカレッジ理学部へ留学。ここで水野はカルチャーショックを受けることとなる。それまでは社長の息子と言うこともあって周りからはちやほやされて来た。人が親切にしてくれても当たり前という感覚だった。しかし、アメリカでは勝手が違った。誰も社長の息子という目では見てくれない。それでも右も左も分からない水野に周囲はあれこれと世話を焼いてくれた。水野は「人の親切」というものを身に浸みて感じるようになる。そしてアメリカ流の合理的なものの考え方。アメリカでの留学経験で水野は2つの大きな財産を得た。
帰国した水野は小売り営業部を経て、1978年取締役に就任。1980年には常務取締役に就任する。ここで水野は大きな決断を下すことになる。海外留学の経験を買われた水野は、海外進出の成功という命題を課せられたのだ。当時のミズノは本格的な海外進出を目論むものの、海外での売り上げがなかなか伸びないという現状の中にいた。そこで水野は一つの提案を持ち出した。海外進出を成功させるために、水野が下した決断とは!?
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