1948年、浦野は愛知県名古屋市で生まれる。実家は繁華街の中心で営業する寿司屋だった。幼い頃から自然が大好きで、昆虫採集、特に蝶の採集に夢中だった。中学生になるとプロ用の網を持って遠く岐阜県や長野県まで出かけていくほどの熱中ぶりだった。そんな中で浦野は「自然と人間の営みの関係」に興味を持っていった。 高校生の時、地理の先生が教えてくれた。
「地理学っていうのは、人間の営みと自然との関わりを研究する学問なんだ」「自然と人間の関わり」この言葉に触発された浦野は、1967年、横浜市立大学経済地理学科へ進学。夢中で地理学を勉強した。特に日本の環境と文化のなかで魚と人間との関わりに関心を持った浦野は、水産業に関わりのある日本冷蔵 株式会社(現 ニチレイ)に入社。社会人としての第一歩を踏み出した。
日本冷蔵に入社した浦野の最初の仕事は、百貨店の食品売り場で自社の冷凍食品を売る売り子だった。 その後、総合企画室、鹿児島工場を経て、 1975年 社団法人 日本冷蔵倉庫協会という業界団体へ出向。運輸省の官僚と仕事を共にすることとなる。ここで浦野は、役人のものの見方、「大きくマクロに物事を見る」ということを学んだ。
本社に戻った浦野は冷凍事業部冷凍企画課に配属。この頃から浦野のなかにある疑問が渦巻いていった。「冷凍倉庫は在庫率を上げることが利益に繋がる。だから、倉庫内に出来るだけ一杯の在庫を積み上げようとする。 しかし、このやり方が正しいのだろうか?」そんな思いを抱えていた浦野は1984年、再び出向を命ぜられた。今度の出向先は子会社の株式会社 日本低温流通。ここで浦野は、既成概念を覆す全く新しい工夫を施した冷凍倉庫の建設に邁進する。従来の倉庫より天井を低く改装。収納効率を捨てて、3段積みの棚を設置。倉庫内への回転扉の設置。倉庫内に出来るだけ多くの荷物を収納することが利益に繋がるというこれまでの考え方からすれば、この改装は収納スペースを犠牲にするタブーとも言うべき改装だった。
しかし、浦野が作ったこの新しい倉庫は業界全体をも震撼させる大革命を引き起こした。倉庫業界の革命。浦野の作り上げた倉庫がもたらした革命とは!?
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